新聞なし、テレビなし、ネットなし

2011年8月15日

ほんの短い期間だったが、新聞も無し、テレビも見れず、ネットはつながらないという生活をした。
新聞はそもそも定期購読をしていない場所で、テレビはデジタル化への切り替えが出来ていなくてアナログのままなのでスイッチをいれても見えず、ネットはパソコンは持って行ったもののWIFIルーターを持って行くのを忘れたのでつなげられず、という事情だった。
そんな状況で情報不足でおびえるか、とおもったら二日目でも新聞が無いことに気がつかず、テレビが見れないという不自由さは感じられず、ネットにつながらないのはこれ幸いと思っていたのが実態である。新聞に出てくる記事でドキドキされるものはなく、すべて悪い方への予定調和の記事ばかり、テレビもケーブルテレビに加入していないので見れたとしてもクソ面白くない笑えないお笑い芸人か、韓流ドラマか、K−ポップスだから見なければ、という必要性は全くない。
新聞を読んだり、テレビを見たり、ネットでメールの処理をしたりする必要がないと、なにをしていたかと思い起こしてみると。家の外に出て外回りの掃除、家の中ではおしゃべりと読書、いつもやりたいと思っていながら出来なかったことがいろいろ出来た気がする。
毎日、どうでもいいメディアに向かってあんなに時間を費やしていたのか、とおもうと不思議な気分になる。

アンドレ ケルテスとメルシャン美術館

2011年7月21日

先週の連休に長野県の御代田まで出かけていった。
特に当ても無くぶらぶらしていたが、成果はメルシャン美術館で
アンドレ ケルテスの写真展を見たこと。
1960年代に亡くなったユダヤ人のフォトグラファー、で日常の
良くある様子というか気配を映している。
ほとんどの写真は極めて客観的ですんなり入ってくるが、
ただし、それぞれの何気ない写真にはっきりメッセージがある。
建物とか、景色とか、、、そのなかに水墨画のように人がさりげなく
写っている。この人が写っていなければ何の面白みもないのだが
ちょこっと写っている人とか生き物が写真のメッセージを作っている。
最近のデジタルで技巧を凝らした写真を見ていることが多いときに
このような写真を見るとなにかほっとする。
デジカメでもこんな感じの写真が写せないはずはない、、、
さっそく来週末はデジカメにこのケルテスの時代のレンズを付けて
写してみることにする。
何枚かポートレートもあった。ポートレートは究極の被写体ではない
だろうか。
何か機会があったらいろんな写真家のポートレートばかりの写真集
を作ってみたい。
このメルシャン美術館はまもなく閉館だそうである。
御代田に出かける大きな楽しみが失われつつある。
帰りに外庭にあるロダンの作品をみながら、フランス政府なら政府が
保持するだろう、いや、隣国の韓国でも21世紀は文化の時代として
文化振興に力をいれているから国が運営するかもしれない。
日本は一番になりたくない国のようだからそんなことはしないだろう。
しかし、一番でなくて良い、ということは二番である保障はどこにも
ない。ずるずるいつの間にか低迷してしまうのが目に見えている。
なぜって、二番、あるいは三番を維持するほうが一番になるより
場合によってはずっと難しいからである。

去年と今年

2011年7月15日

去年は年の初めからずっと右腕の肩の関節、肘、手首、薬指の先
の痛みに悩まされ、キーボードの叩きすぎか、ともおもいパソコンの
キーボ-ドを取り替えたり、夏でも暑いのを我慢して右腕中にサポーター
をはめていたり、かなりうっとおしい生活をしていた。
夏になると、ほんの5分、十分でも炎天下をあるくともう頭痛がする
始末だった。軽い熱中症である。
ところが今年になって冬の終わりごろから右腕の間接の痛みはほとんど
意識することほどのことはなくなり、肩の動く範囲も広がってきている。
さらにこの猛暑になって昨年の経験があるので外にでるのはかなり
怖かったのだが仕事ででざるを得ない日がつづいている。
もちろん炎天下をできるだけ避けて歩いているものの昨年よりもはるか
に日向を歩くケースは増えている。
ところが、今年は昨年のような頭痛の症状がまだ現れない。
今朝も歩きながら去年と今年の違いを考えていたらひとつ気がついた
ことがある。
今年はすごく汗をかく。歩き始めて10分足らずでどんどん汗をかいている。
汗をかくのが代謝現象だとすれば短絡には用心すべきだが、代謝能力
が改善しているのではないか、と思っている。
この夏はすこし人間の体の代謝機能について勉強してみることにする。
ちなみにあ間接の痛みが消えたきっかけはほぼわかっている。
冬頃から飲み始めた水素の錠剤の効果である。水素の錠剤を飲むと
どのようなつながりで関節痛が消えるのか、そのつながりはまだ理解
出来ていないが、、、、、

男の文房具、女の化粧品

2011年7月12日

今朝、コンビニの雑誌の棚を見ていたら、なんとかかんとかの文房具、
と題したムック本が目に付いた。
そういえば、男性向けの雑誌ではつねにどこかで文具の特集をして
いる。
一方女性向けの雑誌では、化粧品の比較評価、新製品紹介が定番
記事である。
ぼやっとコンビニの雑誌の棚の前で立ちながら男性雑誌と女性雑誌
をこんなふうに眺めていたら、ハット気がついた。
そう、文房具は男にとって、女性にとっての化粧品のようなものでは
ないか?
女性のみなさん、男性の持っている文房具、使っている文房具を
注意深く観察するとその男性のタイプとか性格とかがわかるかも
sにれない。女性のリップスティックの使い方を見るとその女性の
性格がわかるように、、、

デジタルブック 教科書の電子化

2011年6月28日

昨日、ある集まりに参加していたら教科書とか絵本の電子化が話題になっていた。
さすがにその道のエキスパートの人たちの会話で、紙の本を単に電子化したのでは意味が無いのではないか、なにか新しいことができるはずだが、、、、という議論だった。
まったくその通りだとおもう。文学のように紙に書かれたもので著者のかいたものを尊重するいみでできるだけ忠実に電子ブックのコンテンツ化を図るものもあるだろう。
しかし、新たに作る、ということができるもの、たとえば教科書とか新たに作る絵本だとかはどこかに紙を越えたコンテンツとサービスを作り出すチャンスがありそうである。
おおよそ、古いメディアのコンテンツを新しいメディアに移し変えるとき、たんに移し変えただけでは新しいメディアの持つ価値を限定的にしか活かすことができない。それだけでも十分価値があることもあるがやはり新しいメディアには新しいかたちのコンテンツがベストだろう。問題はそれを考えるときにどんなアプローチをすればよいか、ということではなかろうか。
わたしは、ひょっとしたら一つ前のメディアの時代のことを考えてみるとそのヒントがみつかるのではないか、とおもっている。
絵本とか教科書であればそのひとつ前のメディアの時代、つまり紙が無かった時代を思い浮かべてみる。そのころ母親は子供になにか教えるときどうしていたのだろうか?父親は息子に何か教えるときどうしていたのだろう?
母親は多分伝承されているお話を子供に話してきかせていただろう。その話を聞いて子供は母親に‘なぜ‘とか‘どうして‘とかの質問を連発していたに違いない。
そのとき母親は子供のなぜについて丁寧に答えて教えていたのではなかろうか。
ネットのメディアとしての最大の特徴は対話能力である。紙のメディアにいろんなものが印刷されるようになって変わったのは印刷されたものの範囲を記憶し,理解する、つまり人と対面関係で教わるのではなく髪に掛かれたものを読み解くという形になっているのが現在である。
インタネットの機能をうまく活用すれば紙の時代には希薄になっていた対話に重点をおいた教科書が望まれているのだと思う。

遠藤周作、田中一光、宇野亜喜良

2011年6月27日

昨日、いつもの週末のごとく夕方近くの古本屋を覗いた。いつも見る棚の順番とは逆に翻訳本の並んでいる棚から眺めていたら遠藤周作訳という本が目に入った。本の題名とか著者ではなく遠藤周作の翻訳というところに惹かれた。
手にとって見ると装丁のデザインがとてもしゃれていたので装丁と訳者の名前に魅せられて買った。
昭和35年、すなわち1960年発行、そのときの価格が290円。昨日払ったのは1575円。河出書房新社発行。帰ってから落ち着いて眺めていたらなんと装丁は田中一光、挿絵は宇野亜喜良と書いてある。
挿絵はほんの何枚しか入っていないが、なるほどこのころの宇野亜喜良氏はこんな絵をかいていたのか、と思わせる今とhちょっと異なる感じの絵である。一方、装丁の田中一光氏は昭和7年ごろの生まれだから20代後半の仕事だがこのころからこんなに完成度が高かったのか、と驚かされるデザインである。
宇野亜喜良氏のイラストレーションには1960年代の後半から興味がありその独特の眼にいつも惹かれていた。田中一光氏の作品を知るようになったのは1989年だから一光氏は既に50代後半のころである。
どちらの作品にもその後につながる特徴があり、宇野亜喜良氏の挿絵の女性の目は挿絵の小さな顔のなかの目でありながらまさに宇野亜喜良氏のイラストの目であり、田中一光氏の装丁の絵は黒字に光沢を消した金で女性の手を描いただけだがその後に通じるなんともいえないつやっぽさがある。
今になって思うと豪華なメンバーで本をつくったものである。お二人とも大好きなアーティストなのでついブログに書いてしまうことにした。
こんな拾い物があるから古本屋めぐりはやめられない。

最初の一円が重要

2011年6月18日

最近、新しい事業についてのモデルを検討している。
ビジネスを考えるとき、いろんなとっかかりがある。技術を開発する
ビジネス、技術を見つけたのでそれを生かして何かモノをつくる
ビジネス、モノがある、あるいは出来たのでそれを売るビジネスなど
いろいろなタイプがある。今考えているのは需要の市場があって、
一方では商品、サービスがあるのだがその間を結ぶプロセスが
旧来のまま市場も発達し商品、サービスのほうも発達している
環境で、その需要と供給の結びつけがスムーズで効率的で統合的
になることで新たな価値が生まれるようなビジネスである。
こんなビジネスを考えているときに、気がついたことがある。
ビジネスだから売上げを考える必要があるのだがその売上げの
売り上げ方、別の言い方では一円の稼ぎ方にはいろいろあって、
その稼ぎ方を考えることがとても重要だと思い始めた。
当たり前といえば極めて当たり前のことであり、それまではとりたてて
意識せずそれなりに考えてきたのだが、はっきり意識してみると
とても興味のあるポイントであることに気がついた。
結論は最初の一円が次の一円につながるように最初の一円の
売り上げ方をデザインする。そうすれば最初の一円を得れば
その後はそれに続いて一円がつながって入ってくる。
今回考えているビジネスではぜひそんな仕組みを組み込もうと
考えている。