いわゆる中華定食屋

2010年6月 7日

神田の淡路町に中華の定食やを見つけた。

久しぶりに自信をもってお勧めできる昼飯どころ、中華の定食やを見つけた。場所は地下鉄丸の内線淡路町駅をでてすぐの交差点から2軒目にある中華やである。決して中華料理店といった構えではない。
となりもかなりいけてるてんぷらやで、二軒並んでいる。この中華やの昼の定食がいい。回鍋肉だとか、酢豚だとか、いろんな定食メニューがあって、すべてにマーボー豆腐がついていてこれがおまけではなくしっかり辛くて山椒が利いていておいしい。
選んだのは酢豚の定食。デザートの杏仁豆腐まで含めて大満足である。もちろん1000円でおつりが来る。店の主も店員も中国人の一家である。
未だ、夜にはいったことがないが酒の肴のメニューを見る限り夜もよさそうである。
神田、あるいは秋葉原に行ったらぜひ淡路町まで足を伸ばすことをお勧めする。

もう、移民だね。

2010年6月 6日

3日ほどまえ、民主党の代表選挙の後の街頭インタビュー。
‘新しい体制に何を期待しますか?‘というインタビューワーにたいする60歳過ぎのビジネスマンの答えである。
期待しない、とか期待できない、とは言わずに‘もう、移民だね‘と答えたのはある意味で大人の答えではないか。
60歳過ぎのビジネスマンは、もう停年退職し年金生活にはいっているのか、あるいは未だ仕事はしていてもかなり自由になっているのか、そんな風に見受けられるひとだった。
この‘移民するか‘というのは最近の我々同年代(60歳代)のよく出てくる話題である。飲んでいたりするとかなり盛り上がって真剣かつ具体的な議論になる。この議論では移民する、あるいは移住するということにかんしては基本的な意見の対立はない。みんな程度の差こそあれ自分達の近い将来の姿のひとつとして考えている。
そこで、議論はもっぱらどこにするか、ということに集中されてくる。
議論のメンバーの典型的な生活環境を紹介しよう。
働いている人もいるし自由な活動をしている人もいる。ほとんどすべての人は子供は独立して家を出て行っていてもっぱら夫婦だけの生活である。
既に年金生活に入っているか、あるいはもう年金生活が手の届くところにある人たちでもある。子供は独立しているから教育費の支出はない。住んでいる家のローンももう完済しているか、あるいはあと数年で完済、という状況である。せいぜい長生きしてもあと30年と思っている。
年金を基本に考えると日本はますます暮らしにくくなると感じている。そのひとつの大きな理由が政治にはなにも期待できない、ということである。
冷静に考えると国としては財政再建が急務だろう。既に国の年間予算の半分にも税収が満たない状況である。たとえ郵貯の限度額を2000万円に上げてもその金で国債を買えるのは一次しのぎだと見ている。
財政再建となれば増税と国の支出を抑えるしかない。消費税も10%で止まるとは思っていない。そんなに遠くない時期に15%になるだろう。そうなれば実質的な年金の目減りである。
そこで、限られた手持ちの資金を有効に活用して生活するには、、、海外移住、と言うことに行き着く。
移住先の候補はいろいろ出てくる。オーストラリア、ニュージーランド,タイなど東南アジアが多い。南ヨーロッパは人気のあるときもあったが最近はむしろ東南アジアがよく話題にあがる。
この地域でもとくにシンガポールとかマレーシアの人気が高い。
ニュージーランドもオーストラリアもよいのだが日本からの距離が遠い。
移住しても年間で2,3回程度は帰国しようと考えているか比較的近くて航空料金の安いところがターゲットとなる。さらには治安の安定しているところがよい。
社会が安定しているという視点にあてば旧英国植民地で現在は英連邦の国がよい。
そこで浮かび上がってくるのがシンガポールとマレーシアである。タイは一時期人気があったが最近は政情不安定で人気はがた落ちである。
英連邦の国が評価が高いのは英国の社会制度が導入されていて社会秩序も安定していることと、シンガポールとマレーシアに関しては過去にリークワンユー、マハティールという名宰相がしっかり国をつくっているのでその環境にも期待がある。
シンガポールとマレーシアでは人気はマレーシアである。シンガポールはやはり物価が高いことが敬遠される理由である。
マレーシアは物価が安く、しかもシンガポールとは地続きだから行きたくなれば車で行くことができる。日本食もスーパーで不自由なく手に入る。さらにエアアジアができてからは成田・クアラルンプール間は東京・福岡よりも安い航空料金で行き来できる。
しかも英連邦の一員であるから英語が通じる。
気候は暑いが年寄りにとっては寒いよりも暑いほうがありがたい。
消費税の値上げがあったらマレーシアに移住しよう、ということになりそうな雰囲気である。
すでにグループで先人の暮らしぶりを見学に行ったりしているから、このトレンドは本物である。
仮に年間支出が300万円の高齢者世帯が100万世帯日本から出て行くとすると日本の市場からは3兆円の消費が消える計算になる。
多いとみるかたいしたことではない、と見るか、微妙な数字である。

今日のランチ

2010年6月 5日

今日は久しぶりに会う家族と目黒川沿いのレストランでランチ。
川沿いのオープンテラスの店で天気もよくこんなランチにぴったりだった。
今日のランチの仲間はリトルプリンセスとそのご両親。
ご両親は以前からの知り合いだが、リトルプリンセスとは初顔合わせ。
彼女の家族とは彼女の曾祖母と私の母との付き合いがその始まり。
もう、半世紀以上前、私と私の弟、彼女の祖母とは同じ小学校。
そのときのPTAでわたしの母と彼女の曾祖母が知り合ったのできっかけ。
彼女はもう少しで2歳だが、もうかなりの美女の片鱗をうかがわせている。
彼女の大きな眼と私の視点があったとき、一瞬見つめられてにっこりされたときには年甲斐も無くどきりとした。彼女の母も祖母も美人で有名だったひとだし、父親は往年のジャンポールベルモントを彷彿とさせるイタリア系アメリカ人。
このリトルプリンセスが既に美女の片鱗を見せているのは当然といえば当然。
10年後が楽しみな彼女である。
写真を写し忘れてここに紹介できないのが残念。

一日、一週間、一月

2010年6月 4日

時間のサイクルの違い、感じたことないだろうか?
どうも最近このサイクルの同期に苦労する。
このところ、二箇所のまったく違うところと仕事をしてる。
ひとつは上海、ひとつは北陸の地方都市、そして自分の住んでいる東京。
上海との仕事では向こうの一日が東京の一週間である。
上海に何かを投げると一日で帰ってくる。その帰ってきたボールを東京で処理するのに軽く一週間かかる。
この違いの大きな要因は意思決定にある。
上海では、どうも社会の方向設定が明確のようで、その方向に乗っているものはすぐにイエス、そうでなければ即座にノーである。
ところが東京では社会全体、企業もふくめて自信のあるリーダーがいないためか基本的な方向設定が出来ていない。だから判断を下すときにそれぞれが独自にそれぞれの能力の範囲とそれぞれが引き受けられるリスクの範囲で判断を行わざるをえない。世の中、自分ではっきりした価値観なり方向性を持っていてしかもリスクが何かを考えて判断を下せる人はそんなにいない。
したがって、判断を下すのに時間がかかる。時間をかけたからといって優れた判断がなされるわけではないのだが……そう言えば普天間の件がよい例である。
だから上海の一日の処理が東京では一週間以上かかってしまう。
さて、地方に眼を移してみる。
そこでは、何かテーマを設定して作業に入るのだが、なぜそれをするのか、となぜ、なぜ、なぜを3回も繰り返すと凍り付いてしまう。やろうとしていること、やっていることの目的が共有されていないのである。そのために、さて、これはなんでやっているのだろう、ということを考えることから始まる。
したがって、当然ながらちょっとしたことを決めるのに一ヶ月はかかってしまう。上海の一日がここでは一ヶ月である。
時間的な生産性の比較をすれば地方の都市を1とすれば、東京は4、上海は28である。これは同じ能力で仕事をしていたら上海は東京の7倍のアウトプットが可能であるとも言える。どうも、こんなところに最近の中国の活況の秘密がある、ひっくり返してみると日本の社会の停滞の原因があるのではないか。
このようにサイクルスピードの違う仕事を同時並行的に手がけているとこのタイミングの調整がストレスになる。
そういえば、最近電車が止まって降りるとき、乗るとき、あるいはホームを歩くとき階段を下りるとき携帯のメールを見ながら周りとはまったく無縁のペースで歩いている人たちがいる。そんな人が前を歩いているとつんのめってしまう。しかし当の本人はメールに陶酔しているから何も感じない。
世の中、何もかものスピードが同期せず、ばらばらになっていてそれが一番スピードの遅いところに合わさってしまっている。つまり、社会のスピードその一番遅いところにいやおう無く合わされてしまっているから、社会の活動全体も一番遅いペースで動いている。それが社会も経済も不活性な根本原因ではないか、と思っている。
しかし、もし、それが原因であれば対処策はなさそうである。
今日は恐ろしいモノをみた。民主党の代表選挙の開票のときである。
束ねた投票用紙を一人の人が一枚一枚手でめくりながら確認している。多分投票用紙の記載の確認なのだろう。
その確認の作業を海外のメディアをふくめ日本中の人がジット見ている。
それが終わると投票用紙はカウントする機械にかけられ2度カウントされる。その数字を手書きでよみあげるのであろう原稿に書き写している。書き写された原稿が司会者に渡され、ようやく得票数が読み上げられる。
タイムマシンに乗った気分だった。多分明治時代のやり方から進歩しているところがあるとすれば投票用紙のカウントマシンが導入されたところだけだろう。日本の政治の明治時代からの進歩もこの程度ではないかと思わせるシーンである。
この作業を見ていてなにか今度の政府の仕事のスピードを象徴しているように思えた。
日本全体の仕組みのある程度のスピードアップが社会と経済の回復の一番の処方箋ではないだろうか。

渋谷区立長谷戸小学校の壁画

2010年6月 3日

長谷戸小学校は恵比寿駅から歩いて10分弱、駒沢通りから代官山方向に
ちょっと入ったところにある。
この小学校の外壁に創立90周年の卒業記念に壁画を描いたらしい。とてもかわいい。
壁の落書きもこれくらいだと許せる。




トリスのポケットボトル

2010年6月 2日

富山県高岡市
駅の周りを1時間半くらい歩き回ってもコンビニなし、ドトールなし、もちろんスタバなし。
かろうじて駅の中にコンビニ風の店があった。

JRに乗る前にビールでも買おうと思い、その店にはいったら、ビールとか日本酒の棚の下の段に焼酎のポケットビンと並んでいたのが写真のトリス。
懐かしい!学生のころ、この白とリスはプレミアムだった。普段はレッドのトリスを飲んでいた。
さっそく買って、ジーンズの後ろのポケットに入れてみる。ぴったり収まる。
むかし、ワイルドターキーの広告でテンガロンハットをかぶった男がジーンズのうしろのポケットにねじ込んでいたのを思い出す。
列車に乗って座るなり封をきってラッパのみ、といってもちょっと口の中にたらしこむだけ。
思いがけなくうまい。
このボトル、271円。ビールの500ミリよりも安い。
しばらくポケットサイズのボトルにはまりそうだ。
ところで、トリスとかサントリーとはふざけた名前をつけたものだ。
まだ、トリスはよい。鳥井という創業者の名前をとってTory`sとつけたのだから。
サントリーは‘鳥井さん‘をひっくりかえしてサントリー。
サントリー、サントリー、さんとりー、、、、と連呼すると‘鳥井さん‘である。

富山県高岡市

2010年6月 1日

昨年から年に数回、富山県の高岡市まで出かけている。
友人の紹介で富山大学芸術文化学部のプロジェクトに参加
しているからである。
これまでアットネットホームのときに地域のケーブルテレビ局を
訪問したとき以外に日本海側に行くことの機会はすくなく、最近の
ように定期的に高岡市を訪れるようになるといろいろ発見できて
面白い。

JRの高岡には越後湯沢から特急‘はくたか‘祈って約2時間強、直江津、糸魚川、富山を経て高岡に着く。
駅前にたつとまず眼にはいるのはほぼ廃墟化した3階建ての駅前商店街ビル。
このビルで未だ元気にビジネスを続けているのは大手消費者金融の3社で、その電飾看板がやたら目立つ。
これを見る限り、‘地方の荒廃‘そのものである。最初のうち、しばらくはそう思っていた。
このところ、日帰りではなく一泊するようになり、駅前のビジネスホテルに一泊すると朝出発前に駅の周辺を
小一時間散歩をするようになった。
駅前商店街ビルこそ寂れているがちょっとあるくとなかなかいい風情の街である。先週も泊まった朝散歩を
していると写真にあるような元気な看板を見つけた。
なんだ、すごい元気のある街ではないか!
渋谷でもこんなに元気のよい看板は最近まったくお目にかかれない。
それにしても看板も値段も手書きのところがますますうれしくなる。
ちなみにこの写真を写したときは朝早くだったので営業はしていなかった。

デジタルはマーケティングをどう変えたか?

2010年5月25日

デジタルはマーケティングをどう変えたか?
こんなお題をいただいて、6月8日の夜、サンケイ主催の大手町ニュースカレッジで社会人向けに新しく出来た夜のカレッジで講演することになった。デジタルって、、、マーケティングって、、、?とにかくこのつかみ所の無いキーワードで90分話すのは結構しんどそうである。話は出来るだけ具体的なことのほうがよほど話しやすい。
そこで一計を案じ、いま毎週教えている早稲田大学の教室の学生に‘デジタルってなんだ?‘
という質問をしてそれぞれの答えを書いてもらった。これを講演の枕にしようという魂胆である。
quize20100525.docをダウンロード

クイズ2010年5月25日

デジタルってなに?

人件費、諸経費、その他もろもろがカットできる新しいメディアのあり方

デジタルとは情報を量子化した桃と考える
すなわち、様々な情報を量に変換し、1と0の配列で表したものといった具合
これによって複製は可能になる、と同時に唯一性は失われる
今私が書いているこのドキュメントもスキャナで取り込み僕の記した情報を
量子化した瞬間、それはデジタルになるだろう
ちょっとさみしい

デジタルとは人の現実では不可能な想像を実現できる二次的な世界であるとおもう。
人はデジタルによって新しい通信手段を得たり絵や音楽などの新しい表現方法をえた。
セカンドライフなどもその最たるものかもしれない。

アナログの反対
世の中を便利にしたもの
電気でうごくもの

アナログでないもの
実体の無いもの

かみなど何かの媒体を使用して情報を載せるのではなく数字として表された情報

人間の獲得したあらたな感覚器官のひとつ
人と人とノ距離と時間をある程度無視し、時に五感以上のものを伝達する
若者の携帯電話依存などはこの感覚に埋もれているため

スピード、情報量に特化したメディア

一言で言えば0と1のみで表現できることだと考える
そしてその精度はコンピューターのスペックに依存する
また、遠距離を早く移動できる

何らかの機械を使う表現方法
実体が存在しないメディア

アナログと対になるもの
デジタルはアナログを簡略化したもの

ある情報が持っている情報量をその情報を必要な精度で符号化して
0と1の1ビットパルス列としてあつかう、または半導体はヒステリシスの
オンオフなどで記録すること。冗長性を持たせることによって伝送誤りを
任意に減らせること、複製してもデータ誤りが無ければまったくおなじもの
としてコピーできる等がアナログ情報との大きな違い

すべてをゼロとイチで表せるように人間が作り出した世界

離散数のこと
1,2,3、、、、8,9,10もすでにデジタル
アナログ時計でもカチカチと一秒刻みで動いていたらデジタルだとおもう

教えることから学ぶ

2010年5月24日

毎週、1講座だが、大学で教えている。
理工系の専門課程で20人足らずのクラスである。講座のテーマは昨年とおなじ。
テーマは同じでありながら話している内容はずいぶん変わってきた。
講座のテーマはコンテンツとメディア、それにかかわるビジネスについて。
マクルーハンは彼のメディア理論からインターネットの登場を予想していた。
そこで、この講座ではインタネットの視点からマクルーハンのメディア理論を
眺めてみること。
さらにはメディアとコンテンツの相互の依存関係を見ながらメディアが変わるとコンテンツもその影響を受けることを眺めている。
マクルーハンの理論を見ながらまだ実現されていないインターネットのもつ可能性について探ってみることも試みている。
こんなことを話そうと、基本になるテキストはマクルーハンの著作を使っている。
マクルーハンのネタ本は去年とおなじである。
同じネタ本をつかっているのだが、今年もその本を読んでいて去年は気がつかなかったことに気がつく。同じ本を同じ目的で読んでいるのに、である。
したがって講座で話そうと思うことも変わってきている。
もし、講座を持って講義をしていなかったらこんな本の読み方はしなかっただろう。
ネタ本を読んで、考えて、だけで終わるはずの読書が講義をしようと思うと考えたことを表現しようとする。
表現しようとすることでさらに考えが深まったり広がったりする。
講義の終わりに毎回クイズを何問か出す。
最後の15分くらいの時間をつかう。
できるだけ明確の答えのでないクイズを考える。
理由はいろんな答えとか反応が見たいからである。
多分、大学に入ってくるまでは単一の正解がある問題ばかり、その唯一の正解を答えさせられてきたはずである。
世の中、正解がひとつだけあることのほうが例外的である。
クイズの答えを見ることが楽しみである。みんな15分間、かなり真剣に答えを書いている。
正解が無いのだから自分の考えを書くのである。
この答えを読むのがたのしみである。自分が考えもしない答えもあるし、にやり、とほくそえむ答えもある。いろんなことを教えられる。
みんなの答えは次回の講義のときにみんなにフィードバックする。
これは、最初のクイズのときに学生からの要望だったし、実は自分もフィードバックするつもりだったから。
教える、というチャンスからいろいろ学んでいる。だから毎週、講義の日が楽しみである。

採用側の視点からみた就職活動

2010年5月20日

私の特技の一つは採用である。
人を採用する目利きだという意味ではない。しかし30代のはじめから採用にかかわり
昨年までの30年間の採用経験から得た、就職活動の心得のようなものがある。
今週金曜日、5月21日の19時半から高田の馬場にある東京コンテンツプロデューサーラボ
(TCPL)というところでこのラボが定期的に行っている公開講座のひとつとして採用側からみた就職活動の心得の話を新卒の場合と既卒の場合についてはなすことになっている。
まだ、申し込み可能だから興味のあるかたは東京コンテンツプロデューサーラボのホームページを見て申し込んでほしい。
就職活動は深刻である。
今年の新卒採用は昨年以上に厳しいだろう。
業績が回復している企業も見られるが採用を増やせるところは成長産業だけである。
既存の産業では雇用調整が業績回復のベースになっているからこのようなところでは採用を
増やすことはできないし、最近のギリシャの財政破綻が万が一飛び火するようなことがあればまたまた世界中が不況に入るだろうから企業としては気の許せない状況である。
新卒既卒含めて私はこの10年間ほど年間で少なくとも200通の履歴書を、多いときには年間4000通から5000通の履歴書を見ている。書類選考の段階は自分でやっている。
人事は自分達でやる、というのだが手分けしてやってみると人事の選考の視点と私の選考の視点はかなり異なる。したがって、人事に任せて書類選考すると私の視点からは欲しい人材がこぼれてしまっていることがあるので自分で書類選考をしている。
書類選考から1時面接までは自分で眼をとおす。一次面接をパスしてきた応募者はもうその資質の差はわずかだからあえて自分で面接することも無いのでほかの役員、人事にまかせることもある。
人の採用は大きな投資である。しかも、人の資質、性格の集まりが企業文化をつくりだす。
そのような重要な仕事は安易に人事に任しておくわけには行かない、というのが持論である。
就職活動で最も重要なのは書類選考に残る事である。
それはいつも履歴書の書き方で決まる。
その履歴書の書き方の重要性が新卒のみならず既卒においても応募者が十分理解しているとは思えない。
たとえば、学生の新卒の場合、安易な就職活動ガイドブックの影響ではないかと思うが、履歴書に書かれていることはもっぱらクラブ活動、バイト、海外旅行の3点である。何を学んで何を得たかを明確に書いている履歴書は25%程度にしか過ぎない。
私の場合は先の3点だけしか書かれていない履歴書は自動的に不採用になる。
既卒の転職組の履歴書ではその内容に疑わしいモノがが結構見られる。
やたらに給与水準が高かったりするのもその一例である。人事はとうぜんながら業界の給与水準も職種での給与水準も知っているのでこの手の者はすぐわかる。すぐに不採用ボックスに入る。
面接についても同じようなことがある。
面接とはしつもんされたことにたいして的確に答えることである。
面接する側の目的は二つある。履歴書に書かれていることの確認と、眼で見て話してみてその人間的な資質を評価することである。
したがって、質問に適切に答えることがきわめて重要なのだが質問をきっちり聞かずに発言したり、暗記してきた売り込みトークを質問に関係なくしゃべりだす応募者もいる。これらを排除していくと自動的に採用すべき応募者が絞り込まれてくる。
人は見かけが半分である。つまり見かけがその評価の50%を支配している。したがってきっちりした服装と身のこなしが必要である。服装はお仕着せのリクルートファッションで統一されてきているが身のこなしがやはり馬脚をあらわす。
これが新卒はまだよいのだが、既卒転職組は服装に対しての神経の払い方が不十分なケースが多い。
服装だけでもきちんとすれば就職活動成功の確率はあがる。
転職組の中でこれといった特別なスキルをもたない中間管理職が一番大変である。
世の中全体として中間管理職入らなくなってきているからである。
このような人たちにまず必要なことは自らのスキル獲得のためのトレーニングだろう。