脳波とテレパシー

2010年5月10日

5月9日の日曜日の朝、テレビで脳波の研究の番組をやっていた。
脳波をその人の信号発信ととらえている。脳波を測定しながら雑誌を見させる。
見ている人の注意あるいは興味があると脳波に変化がおきる。
測定した後、雑誌を見てもらった人にどのページに興味をもったかを答えてもらう。その答えどおりに脳波が反応しているのは当然だが答えに無いところでも反応している。
潜在意識が脳波にあらわれているのだろう
この番組の二つ目の実験は車椅子に座った人に脳波測定器を付けてその人がある約束事にしたがって何かを思い浮かべるとそれが指示となって車椅子が動いたり止まったりする。これは脳波の測定器から電気信号を増幅しその信号を車椅子の駆動機能に伝達して動いたりとまったりしてるわけである。
このようなことが実用化されると言葉が不自由になったり手が不自由になったり、いろんなところがかなり重度の不自由さになったひとでもその人の意識を脳波を通じてコミュニケーションできる仕組みに発展させることができる。
これがこの番組で取り上げている研究の目標のようであった。
この番組を見ながらひらめいたことがある。
この実験では脳波測定器を付けてそこから脳波信号を電気信号に変換して車椅子の駆動装置に伝えて車椅子を動かしている。
ひょっとして脳波信号の出力を高めることが出来て、その脳波信号を受信する仕組みを作ることが出来たら意識するだけで者を動かしたり変化させたりすることができるのではないか、とおもった。いわゆるテレパシーである。つまり、テレパシーとは脳波の出力がきわめて強力に出来ればコミュニケーションが可能になるのではないか?ということである。
さて、それではどんな訓練をすれば脳波の信号の出力を高めることができるのか、そしてその脳波信号を受信するデバイスとしてはどんな機能が必要なのか?
これってコミュニケーションエンジニアリングと言う分野の面白い研究テーマではなかろうか?
すくなくとも脳波信号の出力を強くする訓練をする方法はあるような気がするし、それが出来ると何か変化がありそうだが、、、、、
どなたか、脳波信号の出力を強化する訓練方法を知っている人がいらしたら訓練方法を教えてください。この事例はいろんな形に発展出来そうな気がする。
たとえば、自分の脳波信号の出力を高めるのに脳波自身の出力を高めなくとも脳波信号を増幅する装置を頭につけるとか、、、、
なんとなくちょっと危ない研究かもしれないが、、、

岡本真夜と上海万博

2010年4月25日

先週の大きなニュースのひとつは岡本真夜のうたが上海万博に登場すること。
先週、メディアをにぎわしたのは上海万博のテーマソングが岡本真夜の曲にそっくりだったことだろう。
以前から中国のコピー活動には注目が集まっていたが国家的事業である上海万博のテーマソングがコピーでは、と言う議論になるにいたってコピー文化の面目躍如と言うべきだろうか。
ところでテレビで流れたテーマソングと岡本真夜の曲との比較を聞いて盗作かといわれて、あれ?と思った人もいるのではなかろうか?
テレビで流れていたのはそれぞれAメロの最初の二つのフレーズである。
岡本真夜の曲は二つのフレーズはまったく同じメロディであるのに対しテーマソングでは最初のフレーズは岡本真夜の曲と同じだが、二番目のフレーズは三度下のメロディになっているから、これは同じだとはいえない。
ただ、放送されなかった部分でもそっくりなところがあってBメロのフレーズもおなじだったので盗作疑惑に至ったと言うことらしい。
実はここでこのことを話題にしたいとおもったのは盗作疑惑が発生してからあとの流れについてである。
ひょっとして盗作だ、盗作ではない、という水掛け論に終わるか、とおもっていたら中国側はあっさり盗作であることを認め、さらには原作者にテーマソングとして使用することを求めたことと、さらに原作者側は認められたことを受け止めてテーマソングとしての仕様を了承した点である。
盗作を認める、つまり原著作者の権利を侵害したことを認め、更にその利用を求め原著作者はその著作権が認められたと言うことによって使用を了承する、というこの流れはきわめて短時間で進み、その過程では弁護士が登場し権利を主張し更にそれに対しての過大な対価を要求し、双方の議論になるという、よく見られる西の世界でのやりとりとはまったく違った流れで決着した。
これはある意味で著作権に関しての権利侵害の発生したケースでの理想的な処理のされ方ではなかったか、とおもう。
著作権を主張することイコール金銭を要求する、というビジネスに置き換えてしまい勝ちなよく見られる進め方に比べ、原著作者であるアーティストが著作権を認知されたことで更なる利用を了承し、しかもそれにいたる時間はほんの数日であり、弁護士の餌食にもならなかった、このケースは今後の著作権に関する処理のひとつのモデルケースになるのではないだろうか?
作者は著作権は侵害されたくない、つまり権利は認めて欲しい、しかし必ずしもすべての作者が権利侵害について金銭を取り立てたいとおもっているわけではないだろう。
なぜなら作者にとっては自分の作ったものが広く多くの人に知られ楽しまれるほうが弁護士経由で金銭を取り立てることよりも意味があると思っている人も少なくないからであろう。
岡本真夜の今回の対応を見て彼女のアーティストとしての姿勢を新たに認識した人も多いとおもう。彼女がアーティストが主体的であれば、、今回のような解決の仕方があることを示してくれたことの意味は大きいとおもう。

リクルートスーツと就職浪人

2010年4月21日

今年も就職活動の季節が始まったのか、街中ではリクルート姿を見かけるようになった。この中の何人が現役で何人くらいが浪人なのか?
このところ急に街中でリクルートスーツ姿を見かけるようになった。新入社員の季節だからこれらと就職活動の学生とは区別が付きにくいが一番はっきりしているのは持っているかばんである。
新入社員はちゃんとビジネスバッグを持っているが、リクルートスーツにショルダーバッグの斜めがけをしているのは明らかに就職活動の人たちであろう。
こんな姿をみながら頭に浮かんだのは就職浪人のことである。
昨シーズンの就職活動で就職できず、今年もまた就職活動をしている人たちである。
どれくらいの人数が就職浪人をしているのか、よくわからないが全体の卒業生の中で10%以上、就職希望者の中で15%から20%くらいはいるのではなかろうか?
就職浪人が就職希望者の20%いたとしよう。今年の新規の就職希望者がほぼ昨年の希望者と同じ人数だとすれば今年の就職希望者は昨年からの就職浪人プラス新規の就職希望者であるから、昨年に比べてその人数は120%となっているはずである。
求人のほうは昨年に比べて改善された、と言う話は聞かない。したがって昨年と同水準か、あるいはそれ以下でなる可能性大である。昨年と同じレベルの求人で、求職者は就職浪人が加わった分20%増えている。そこで就職できるのは昨年と同じレベルの80%だとすると、今年
の就職浪人は求職者数に対して40%、つまり昨年の就職浪人の人数に比べて倍になる計算になる。
さて、問題はこの傾向が続き、毎年就職浪人が溜まっていくのか、あるいは景気回復とともに求人が増えて就職浪人はどこかのタイミングでなくなるのか?
景気が悪くなってリストラが進んだと同時に新規の採用を減らしたからいまの就職浪人現象が発生しているのだが、景気がよくなって事業成績が改善したら企業は採用を増やすかどうか、どうもこの点に疑問がある。
企業での人減らしは収益の悪化にともない事業改善にあわせて人の削減に入ったのだが、そこで削減された人員はそもそも企業内のシステム化あるいは省力化によって既に発生していた企業内余剰人員の削減が中心であったとしたら、企業としては新規の事業でも出てこない限り新規の採用は出てこないのではないか、と懸念される。
そのような状況下でたとえ学内で留年して翌年の就職にそなえたとしても本来の新たな卒業予定者に比べて就職浪人は競争上不利であろう。
就職浪人と大学入試浪人とは決定的にちがうところがある。大学入試浪人の場合は多くの場合高校での勉強不足をあらためて浪人の間に予備校などに通い学力の充実強化をはかり翌年の入試に備える。
また、入試においては年齢は採用不採用の判断には影響がない。就職浪人にかんしては何が不足で就職できなかったのか、本人にとってははっきりしない。入試のように点数が足りなかった、と言うような客観的基準がないからであるし、ほとんどの場合企業から不採用に至った理由の応募者に対してのフィードバックはない。
したがって就職のために留年したところで既に卒業単位を取得してしまっていたりすると、とくにすべきことが思い当たらない人がほとんどであろう。
そうなるとせいぜいがんばるのはアルバイトであり、アルバイトにがんばり過ぎた結果、アルバイトでなくなってしまいフリーター生活に入っていく、ということにもなりかねない。
さて、採用側からの判断としてはなぜ不採用にするのであろうか?
もちろん、採用人数が限定されているので、あるレベルの人数まで応募者を絞りこむと実はその中から採用するのは誰でもよくなってくる。
つまり、その先は運であってもはや能力の差ではないが、そうはいっても秀でた能力をもちあわせると採用基準を超えているなかで採用される確率はずっと高くなる。
いくつも企業に応募しても採用に至らない人の場合は企業から見ると共通した問題点がある。
それは、物足りなさである。
ひょっとして就職活動本の影響かもしれないが応募書類を見ているとおよそ70%の応募書類に書かれているのは、クラブ活動でのリーダーシップ、アルバイトでの社会経験、海外旅行での見聞である。大学で何を学んだか、について書かれているのは残りの30%である。
真剣に採用を考えている企業では、よほどの特徴が無い限り、先の70%は自動的に書類選考で脱落する。
多分、多くの就職浪人はこの70%のなかの人たちだろう。これからも就職浪人は増えていくだろう。
そのなかで職を勝ち得るには、自分で起業するかあるいは就職競争に勝つことである。
企業が採用したい新卒者は学校にいる間に学校から何かをつかんできた、あるいは学んできた人材である。クラブ活動にもアルバイトにも海外旅行にも企業は学生にたいしては求めてもいないし期待もしていない。
そこで、浪人した人がやるべきことは浪人期間中になにかを身につけることである。
1年あるとかなりのことが出来るはずである。さらには単なる学生を越えた何かができることもあるだろう。
自分の在籍している学校で学ぶことがないなら、外の専門性の高い教育機関でなにか
を意図をもってまなぶこともひとつである。
大学受験浪人とちがって、残念ながら就職浪人にはあらかじめ決まったカリキュラムは無い。自分でそれを考え、身につけていかなければならないが、景気が少々回復しても就職事情はさほど改善されないだろうと思われる現在の環境のなかで一年待てば何とかなるだろうということは決して起こりそうに無い。

天候急変vs温暖化

2010年4月13日

このところの天候の変化はすざましい。
昨日は冬のコートをまたもやひっぱりだし、まだクリーニングにだしていなくて幸いと思いながら、マフラーまで首に巻いて真冬のごとく冷たい雨のなかを出かけた。あまりの寒さに家が恋しく仕事もそこそこで切り上げまっすぐ帰宅。
ところが今日はどうだ!?
20度を超えそうな五月の連休の時期のような天気。
昨日と今日では気温の差はゆうに10度はあるだろう。
天気予報はていきあつがはりだしたとか、ひっこんだとか、、現象の説明を聞いてもなぜ急変するのか、については決してはっきりしない。
こんなに広い地域を一日で10度以上も変えてしまう、そのエネルギーの巨大さに関心してしまう。
こんな巨大な自然のパワーを実際に感じるとCO2を削減して地球の温暖化を防止しよう、というがそんなことくらいでこんなに大きなパワーのある気象変化に意味があるのであろうかとおもってしまう。どうもCO2の削減と地球温暖化防止の関係がほんとうにあるのかどうかうさん
くさい。
単に地上の表面温度の変化をCO2だけで見る意味があるのか、と疑問になる。
本当はもっとスケールの大きな何かが温暖化に働いているか、あるいは地球そのものが周期的にあたたかくなったり寒くなったりするサイクルをもっているのではないか?
地球温暖化と結びつけることによってCo2削減をビジネスとか国家戦略にしようというどこか魂胆があるのでは?
だれか地球物理的にこのあたり解説してくれないだろうか?
それとも疑問を持つ人はいないのだろうか?
とにかく昨日今日のこの温度変化を引き起こす自然のパワーはすごい!

デジカメでマニュアル撮影

2010年4月11日

今頃になって気づいたことがある。

最近、といってももう一月くらい前になるがまたカメラを一台買ってしまった。
パナソニックのLumix GF1と言うモデル。このカメラを買った理由はこのカメラのフォーマットがマイクロフォーサーズという形式でいろんなフィルムカメラのレンズが使えると言うことを聞いたからである。同じフォーマットを使っているカメラにオリンパスがあるがそちらを買わずにLumixにしたのは目的としてフィルムカメラのレンズを使いたかったために安いほうを選んだから。
このカメラはいろんなレンズアダプターが販売されている。多分5種類ではきかないだろう。それらの中で一番ポピュラーなアダプターはライカのレンズ用のアダプターである。
さっそくそのライカ用のアダプターを購入し、すっかり最近は登場の機会が少なくなったライカの、それもスクリューマウントのレンズを使う。
GF1の標準のレンズではないからそもそもデジカメが持っているいろんな機能は使えない。単にマニュアル操作のカメラとして働くだけであるから使い方も昔のマニュアルカメラと同じ、絞りもシャッタースピードもピントも自分でセットしなければならない。つまり、感覚的には昔のフィルムカメラのフィルムのかわりにCCDを経由してSDメモリーに写すことが出来るだけだがフィルムとちがって家でプリント出来る手軽さがよい。
写真はいま愛用しているGF1にライカのズミルクス、1.4の50ミリをつけたところである。カメラのルミックスという名前とレンズのズミルックスという名前が似ていることのおもしろさはこのブログを書いていて気がついた。
さて、マニュアルで使ってみて気がついたことがある。当たり前のことだから多くの人は既にご存知なのだろうが自分にとってはなぜこんなことが今まで気がつかなかったのか、という驚きである。
それはマニュアルで操作するとシャッタースピードと絞りと距離をセットしなければならないのだが、液晶が大きいのでかなり楽である。シャッタースピードと絞りはその場の明るさで判断してセットする。
デジカメの便利なのはそれからである。まず,写してみる。その結果を液晶ディスプレイで見る。そうすると露出が適正かどうか判る。もしずれていたらシャッタースピード、あるいは絞りを調整してまた写す。これを繰り返すと適正露出の写真が写せる。同じ場所でも明るさは微妙に変わる。それにあわせて試行錯誤的に最適露出を選ぶことができる。
同時にほかにマニュアルのフィルムカメラを持っていて一緒に使っているとする。
そうすると、このようにしてデジカメのほうで決めた露出データをマニュアルのフィルムカメラにセットするとマニュアルでしか操作できないふるいカメラでも気持ちよく写真が写せる。
こんなことが判ってから実はマニュアルのフィルムカメラとデジカメを一緒に持ち歩くようになった。デジカメを露出を決める道具に使うのである。そのためにはなにもルミックスでなくてもよくて自動的に決定する露出と距離のデータがわかるデジカメなら何でもよい。、そんなときには軽くて小さい、しかしシャッタースピードあるいは絞りを固定できて露出データのわかるデジカメを持って歩く。何のことはない、デジカメを露出計の変わりに使っているだけのことなのだが、、、気の付いたときはとても新鮮に思えた。
このことが判って以来最近は昔のフィルムカメラを持ち出す機会が増えている。
最近こんな使い方でもっぱら愛用してるのはフォクトレンダーというもうとっくに姿を消してしまったメーカーのプロミネントIIというモデルにノクトンの1.5、50ミリのレンズを付けたオールドカメラである。
デジタル技術製品の登場でお蔵入りになりかけていたふるいフィルムカメラを使う楽しみがでてきた、このデジタル効果が面白い。
同じ視点で周りを見てみたらひょっとしたらデジタル製品ともう使わないとおもっていたアナログ製品を組み合わせると生き返るアナログ製品がみつかるかもしれない。

魚の干物

2010年4月 7日

先日、久しぶりに築地の場外市場に出かけた。
このまえ行ったのは年末だったから4ヶ月ぶり。土曜日の朝だったせいか結構すいていたので普段運んでいて見て歩けなかったあたりをうろつくことができた。
発見したのは乾物屋。そこで、魚の干物を4種類仕入れた。

この乾物屋は場外でもちょっと奥まったところにあったので今まで気がつかなかった。
実は数年前までは場外の入り口近いところに乾物屋があってそこで小さなしまあじの干物を売っていたのだが、その乾物屋が無くなってしまってからしまあじの干物が見つからなかった。今回は時間もゆとりがあり、市場も空いていたので調度よいチャンスとおもい乾物屋を一軒一軒覗いていたら見つけることができた。
このしまあじの干物は4番目の写真である。
とにかく、癖のない味で日本酒にも白ワインにもシャンパンにもとてもぴったりである。
この店はかなり大きな乾物屋で、うろうろ見ていたらいろんな者が見つかったので4種類も買ってしまった。
しかし、さすがに築地だけあって4種類も買っても十分納得のいく値段である。
最初の写真はその名の高いのどぐろの乾物。軽く干しただけの生々しいのどぐろが二枚はいって800円。乾物の値段としては決して安いとはいえないがのどぐろの乾物としては抜群の値段である。これは島根県の浜田から来たもの。
二番目はこれもほんのちょっと干しただけの九十九里浜から来たばかりのうるめいわし。
新鮮さがうりでそのいわしは乾物とはおもえないほどきらきら光っている。
うるめいわしはいわゆるオイルサーディンになているいわしである。
三つ目の乾物は片口いわし。これは九十九里の漁師さんが売り物ではなく乾物にしているものをこの間物やのおやじさんがしいれてきたもの。
あまりにきれいなので店の前でそのままかじってみたらとにかくうまい。
本来はだしをとるいわしであるがフライパンでちょっと乾煎りして食べるとこれもすばらしい
酒の肴になる。この片口いわしは水に20分くらいつけておくとだしがでる。
だしをとってもまだ十分おいしいのでそれをオリーブオイルにつけるといわゆるアンチョビができる。今回は日本の魚の豊富さ、乾物の素晴らしさを再認識した。
4種類買って4000円ちょっとだった。
日比谷線の築地を降りてすぐのところが場外市場である。土曜日の朝あたりに出かけるには
とても面白い場所である。最近は買い物をしない外国人客が増えてきているがそれでも
楽しい場所である。場外は場内から仕入れて並べるので朝の6時から7時ごろがちょうど店に品モノがでそろったよいタイミングである。

最近のご贔屓は泡盛

2010年3月23日

このところ沖縄に行く機会が多い。かなり沖縄に影響されてきている。
そのひとつが泡盛。あの飲み口すっきりにすっかりはまっている。


泡盛は種類が多いのとどれが定番なのか判らないのでいろいろ買ってみて試している。結構、あたりはずれがあるがようやく自分の定番にたどりついた。
それが、写真の‘くら‘という泡盛で、度数は25度。ちょっと度数がものたりないが味はくせがなく、かろやかである。
わたしにとってありがたいのは近くのスーパーの東急ストアに売っているのでいつでも手に入ること。
買ったきっかけはボトルの首にラベルタグが付いていてなにかコンテストに入賞したように見えたのだが、買うときは‘入賞した酒にろくなものはないのだが、、、‘と思いながら買ってみた。ラベルいわく、モンドセレクションで金賞を重ねて受賞、などと書いてある。
まゆつばで買ってみて飲み始めてびっくりである。たしか、1200円くらい。一応古酒と書いてはある。最近おすすめの一瓶、二日酔いになる心配がない。

久しぶりのテイルシチュー

2010年3月23日

昨日、ちかくのスーパーでオックステイルを売っているのを見つけた。
連休の最終日、時間があったのでさっそくテイルシチューをつくる。


料理をするのは嫌いではない。すでに高校生のころには何か作っていた記憶がある。
一度も下宿をしたことが無く結婚するまで自宅に住んでいたので必要に迫られて料理をしていたわけではないから、料理がすきなのだろう。そうは言っても毎日きっちり主婦のように作るわけではないからあくまで男の気まぐれ料理である。
自分の性格として料理をする気になれるときは気分に余裕があるときである。料理も簡単なものから気合を入れて作るものまで、いろいろある。どのレベルの料理に手をつけるか、がこれがまた、そのときの精神状態のゆとりを表している。
テイルシチューはすこし気合のはいっているほうのメニューである。この週末は久しぶりに3日間のんびりと家にいたので気分的なゆとりが出来て何か作ってみようという気になった。
休みだから築地まで出かけるわけにも行かず、近くの八百屋に冬瓜を探しに行ったが季節が合わないのか置いてなかった。
そもそもは干した貝柱を戻して冬瓜と煮て冬瓜のスープを作ろうと考えていた。しかし、今、これを書いていて、冬瓜が見つからなくってよかったと気がついた。冬瓜のスープを作るには干し貝柱を一晩水につけて戻さなければならないからである。冬瓜が手に入っても昨晩の夕食には間に合わなかったはずだ。ふらふら近くのスーパーなどを覗いて材料を探していたら、肉売り場の棚の奥にオックステイルがチラッと見えた。こんな店にあるとはおもわなかったし、これまでは気がつかなかったのだが、、、
しかし、パッケージは二つしかない。ちょっと足りない。念のため、店の人に聞いたら冷蔵庫にはまだある、と言うので全部で6パック買う。ついでにタンもあるか?と聞いたらタンシチュー用に厚めにスライスしたものがあるという。これで、次回はタンシチューが作れる。午後の中ごろからのんびりタマネギを炒めはじめた。テイルに小麦粉を振って周りを焦がして煮はじめる。味付けに使うのはしっかり狐色(と料理の本には書いてある)までいためた2個のタマネギとセロリのみじん切りだけ。
これに加えるのは赤ワインだが、今回はRedcreekのPino Noir、一本セールで980円になっているのを使う。ここで、ちょっとウンチク。どうしてこのワインを選んだかというと、まず、値段。シチューに使うのに一本1000円以上のものを使うつもりはない。それにカベルネソービニオンでは酸味があると思いピノノワールを選んだ。
ゆっくり時間をかけて煮込めばよいのだが、夕食に間に合わせたいので今回は圧力鍋をつかう。圧力鍋は固い肉を煮込むときの時間短縮の最強ツールである。というわけで、昨晩の夕食は出来立てのテイルシチュー。
出来上がり寸前にフランスパンが無いのとワインをすっかりシチューにつぎ込んでしまって飲む分が残っていなかったので、あわてて近くのスーパーまで買いに走った。
休みも三日目になると時間的にも精神的にもゆとりが出来る。昨日は午前中はすっかりほったらかしだった楽器の手入れをし、昼には自転車のタイヤが細すぎてこの年では乗りにくくなったので近くの自転車屋まで出かけてリブの幅に入る出来るだけ幅の広いタイヤと取り替えてもらった。少なくともタイヤの幅は五割くらい広くなった。季節がよくなったのでポダリングを楽しむ準備ができた。それから、夕食のシチューつくりで、昨日は久しぶりに充実した休日だった。

那覇の公営市場は中国そのもの

2010年3月22日

このところ毎月沖縄に出かけている。
二月はパネルディスカッションのパネラーの一人として、今月はシンポジウムの
参加者として。
時々那覇にある公営市場を覗いてみる。
今回も帰りの飛行機の便まで少し時間があったので出かけた。

那覇はいろいろ見所があるが、私の好きなところは公営市場である。
場所は国際通りからちょっと入った昔ながらの市場のあるちょうど
真ん中たりに別に区切られていて、公営市場入り口と看板の出ている
ところのドアを開けて入るとそこはもう、沖縄の築地である。
雰囲気は築地そのものである。違うのはなにかまったく中国を感じ
させられる。上海の町の中にある古い市場と同じような匂いがする。
ここは,魚をはじめいろんなものを売っているがその中で圧巻なのは
豚肉である。
豚肉を売る店は何軒もあって、それぞれがいろんな豚の部位を売って
いる。
その中の一軒に豚の頭が並んでいた。しかも真っ黒なサングラスを
かけて、である。そのままみるとなんとも悲しげな表情をしている豚の
頭だがサングラスをかけているととてもユーモラスなギャングの相
である。引き寄せられるようにカメラを取り出し一枚写したが、それ
だけではもったいないとおもい、この豚頭のギャングと記念のツー
ショットをしてしまった。
これだけ豚肉が豊富なのに国際通りを歩いていてとんかつ専門店
は見あたらなかった。絶対おいしいとんかつやがあってよいはずである。
公営市場には二階があってそこには、ちょうど築地に食べ物屋がある
ようにいろんな沖縄らしい食べ物屋がありやすくておいしい。

アメリカンアイドル

2010年3月22日

この連休、久しぶりにアメリカンアイドルを見た。
久しぶりの連休と言う感じでのんびりしてテレビを見ていたら、アメリカンアイドルをケーブルテレビで発見した。テレビ番組ガイドを見る習慣がないのでいつもチャンネルサーフィンをしながらいきあたりばったりに番組をみる。この番組を見るのは久しぶりである。
昨日今日の二日間で見たアメリカンアイドルは一ヶ月前の再放送のようだが男女12人ずつ、24人まで絞り込まれたところでのコンテストなので出演者の質はかなりの高さである。
この番組、出演者の歌も楽しめるが、何よりも楽しくて勉強になるのは4人の審査員の審査評である。審査評を聞いていると、なるほどこのように評価するのか、と審査員が見ている評価ポイントがわかる。
私のこの番組の楽しみ方は出演者の歌を聴きながら自分なりの審査コメントを考えておく。それと、歌が終わってからの審査員の批評とを比較してみる。その結果多くの場合自分の評価のつたなさを思い知らされる。5年ほどの自分のレコード会社の仕事の経験から、今回のアメリカンアイドルの24人までに残ったようなタレントには出会わなかったようにおもう。
それだけアメリカの音楽市場の新人の層の厚みと質の高さを痛感させられる。今回の24人のレベルの演奏者に対しての審査員の批評のポイントはかなり絞り込まれている。
まず、そもそもすぐれた声の持ち主であることがまず条件。よく使われている言葉は‘Gifted voice`、生まれながらに与えられた声の持ち主であること。
次に身の丈にあった歌を選び身の丈にあった表現を求められる。若い人がベテランの歌をベテラン風に歌つと、お父さんかお母さんの世代の歌をうたうのではない、とたしなめられる。
三番目は個性の発揮。カバーを歌っても個性は発揮できる、自分の身の丈と声の質にあった歌を選べば、、、とコメントされている。四番目はコンテストだからだろうが歌い方がちょっとでも萎縮していると、とにかくのびのびと歌え、と指摘される。
自分に合った選曲をすることがとても大切なことがわかる。イケテル、とかノリがいいといったわけの判らないコメントは一切ない。ただ、一言、それぞれの審査員は自分が好きか嫌いかは時々コメントしている。今回の番組の出演者のレベルにまで来ると音程がずれたりリズムに乗れていないと言う出演者はまずいない。こんなことは少なくとも論外なのである。
レコード会社の制作部門の社員にとって重要なことは能力のある新人を発掘することである。発掘するには能力のある新人に出会わなければならないが、能力を見極める力が探すほうにも求められる。新人の能力を見極める力を鍛える必要がある。歌手の評価する力を学ぶにはこのアメリカンアイドルと言う番組は最高の教材だとおもう。
昨今、なかなか仕事場の先輩から評価する目を添わることは少ない。なにも音楽の世界だけでなく、どこの職場でも先輩が後輩を指導する余裕も無ければ能力もなくなっている。したがって、何年たっても入社して少したったままの惰性で仕事をしていたり、もっと嘆かわしいのはよしあしの区別無く先輩の背中から見習ってしまっている。
このアメリカンアイドルの出演者と審査員の批評は新人発掘の目の付け所を教えてくれるだけでなく、発掘したあとの売り出すための企画のポイント、育成の仕方も教えてくる。
こころある音楽製作部門の人には必見お勧めの番組である。