もやしのひげ

2012年12月13日

先日、珍しく横浜方向に仕事で出かけることがあった。
ちょうど昼前に仕事が終わったので、昼飯を兼ねて中華街に行った。
中華街に入ってすぐのところの店の看板に惹かれて飛び込み飲茶を食べる。少量、いろいろ食べられるのが良い。
食後、つぎの約束まで時間があるので腹ごなしを兼ねて中華街を散歩していたら店の外の椅子に腰掛けて何かしているおばあさんを見つけた。いまおもうと写真を撮っておけば良かったのだが、あいにく写し損ねてしまったが、80歳前後のおばあさんである。
椅子に腰掛けて、膝の上にはもやしが入ったざるを載せて、せっせと手を動かしている。そばに寄ってよく見るともやしのひげを丁寧にひとつづつとっている。
そのとき、どういうわけか「これこそ高齢者雇用の最適事例!」とひらめいた。
もやしのひげを取るのに体力はいらない。技術もいらない。日向に椅子をだし、日向ぼっこをしながらもやしのひげを一本づつとるのが仕事である。
単純な誰にでもできる仕事だが、ほかのこともできる若い人にやらせる必要はない。むしろ年寄りの丁寧で几帳面な仕事の仕方が良い。
もやしは最も安い野菜の部類だろう。ただ、ひげがついたまま調理するとどうもそのひげの口の中での感触が風味を損なう。その点ひげを取り除いたもやしを味わうともやしは何倍も美味しく感じられる。
安い素材でありながらおばあさんの単純だが気の長い丁寧な手仕事によって大きな付加価値を生み出す。
こんな視点で世の中を眺めると高齢者雇用のチャンス、高齢者活用のチャンスはたくさん見つかるのではないだろうか。
あのひげのないもやしの美味しさはおばあさんの作り出した味なのである。

朝ドラに「ミタ」を見つける

2012年11月14日

3週間ほど前に、今NHKで放映されている朝ドラの脚本作家は
「家政婦のミタ」の作家だと聞いて以来、この朝ドラのどこかに
ミタがいるはず,と思ってみていたところ、昨日,ようやく、ベルの
女性マネージャーがミタ的であるのに気がついた。
あの無表情で、社長と何か因縁のありそうな女性である。
作家は意図したかどうかわからない。
ひょっとして、意図せずに書いたのに見ている私がそう感じるのかも
しれない。
このようにあまり筋書きとか構成とかとは別の観点でドラマを見るのも
面白い。自分勝手に納得している。

中国共産党大会始まる

2012年11月 9日

昨日から5年に一度の中国共産党の全国大会が始まった今年は10年ぶりにトップの交代の年
ひな壇には現総書記の胡錦濤とその右となりに後継者の習金平がいるのは当然だが、左隣はなんと江沢民!習金平の顔が何となく元気がなさそうに見えたのは気のせいか?
今の中国の状態を一言で言うと、平等でもなし、自由でもなし。これからの十年はこの方向の選択が迫られる十年だろう
つい昔、偉い人が「白い猫も黒い猫も、ネズミを捕まえる猫はみんなよい猫だ」と言って経済発展へのステップを踏み出した白い猫も黒い猫も捕まえてきたネズミはその他の猫にも分配される約束だったたしかに白い猫も黒い猫も競争してネズミをつかまえたので沢山のネズミを
捕まえることができた。ところが、黒い猫は悪い猫で自分が捕まえてきたネズミを分配せずにこっそり溜め込んでいた。
今までは捕まえてきたネズミをみんなに分配していた白い猫までこれを見てこっそりネズミを溜め込むようになった。そのうち、ほかの猫たちはネズミの分配が少ないことに気がついた。
そして、誰かが捕まえたネズミを溜め込んでいることをうすうす知り始めた。
「捕まえたネズミは約束通り分配しろ!」
猫たちはあちらこちらで騒ぎだした。溜め込んでいる猫を叱ってネズミを分配させようとしたが、親猫まで溜め込んでいたので、それを知っている黒猫も白猫も言うことをきかない。
さてどうなるのだろう?続きは10年後。

プラダを着た悪魔は名編集長で最高の上司

2012年11月 1日

数年前に上映された、プラダを着た悪魔がテレビで最近再放映されていた。
しばらく経って見てみると最初に見たときとは全然異なる印象。
一言で言うと、プラダを着た悪魔は名編集長且つ最高の上司、であった。
プラダを着た悪魔は確か2006年に封切られた映画で、そのファッショナブルな内容と、メリル・ストリープ扮するファッション雑誌の編集長の新人いじめが当時のわだいだった。映画のキャッチフレーズは最悪の上司、、、、。
この映画はメリル・ストリープ扮するミランダという「ランウエイ」というファッション雑誌の編集長とアンハザウエイ扮するアンドレアという新入りアシスタントを軸に、ニューヨークのファッション業界、メディア業界の中で働く人たちのなかの意地悪編集長と田舎出身のアシスタントのやり取りを描いている。なにかにつけて横暴で意地悪な編集長と、最初はドジばかり踏む新人アシスタントの成長ぶりがもっぱら描き出されているのだが、その背後を考えながら見ていると、これはどんでもなく、優れたマネジメント読本だ、と気がついた。
もちろんパトリシアフィールドのスタイリングのファションだけ見ていても十分楽しいが、次の三つの点で大いに参考になる映画である。DVDが安くで出ているのでぜひ興味のある方にはオススメする。
1.トップクオリティの雑誌はこんな編集長がいて、初めてできるものである。「ランウエイ」の創刊周年パーティーで司会者が編集長のミランダをたたえる言葉がある。それは「ミランダは、ファッションの美の評価の基準を世の中に示し続けてきた」という言葉である。この言葉は、メディアのあるべき姿としてそのメディアの担当する分野に関して世の中に評価の基準を示すのがその役割である、と言っている。まさにメディアの役割とその中心である編集長がやるべきことを一言で言い表している。この言葉をふまえてミランダの振る舞いをみていると、その姿勢、行動にも納得がいく。何も編集長に限っただけでなく、世の中の管理職に必要な資質を示している。優しさ、生ぬるさの正反対に位置するが、主張をするにはそれだけの気構えが必要だということを教えてくれる。
2.厳しい上司のもとで、部下はみるみる育っていく
編集長であるミランダは新人アシスタントであっても容赦せず自分の要求水準を満たす仕事を要求する。この厳しさのなかでアンドレアはどんどん成長していく。部下の育成というものはなんであるのか、そのひとつを示してくれている。過保護のもとでは人は育たない。上司は部下とまともに対峙して育成しなければいけないというお手本である。
3.部下たるもの、ぼやきは何の役にも立たない。ただ、全力で要求に答えることである。
それが成長への最短距離であることを教えてくれる。
以上、3点、最近の我々の世界では、ひょっとして忘れ去られてはいないだろうか。
メディアには主張があるのだろうか。

ユーモア、笑い、お笑い、そしていじめ

2012年10月24日

いじめについては大津の事件よりもずっと前、体育館のマットを巻いたところに放り込まれた事件あたりから、つねに頭のどこかに引っかかっている。
しかし、なかなか、ブログなどに書くだけの明確な意識のまとまりができていなかった。
最近、歌詞に興味が有り、阿久悠氏が平成19年に亡くなった直後に出版された「清らかな厭世、言葉を失くした日本人へ」という本を読んでいたところひょっとしてこれはいじめの原因となんらか関係があるのではないか、とおもう一文を見つけた。
それを以下で全文、引用させていただく。
ユーモアと笑いとお笑いは薬とナイフとトンカチほど違っているものなのだ。ユーモアという言葉が、いつのまにか死語になってしまっている。日常のなかでまず聞かない。従って現在の社会の中に、ユーモリストと呼ばれる粋な御仁も、存在しなくなった。いても隠れる。
近頃の紙ヤスリでこすり合うような人間関係も、ユーモア不在が大きな原因になっていると思えてならない。ユーモアがないと、傷つけることでしか相手を確認できなくなるからである。どうであろう。
毎日の事件のニュースをききながら、そのような感想を抱くことはないだろうか。フッと笑えばいいのに。
僕は学校教育のなかにユーモアを取り入れたいくらいの気持ちを持っている。人と人はザラザラこすりあうのではなく、いい心持ちの潤滑剤の役目を果たす言葉を持たなければならない。それがユーモアである。
奇妙なことに、ユーモアは探しても探しても見つからない時代なのに、「笑い」は世に満ちている。テレビの番組を見ていると、笑わせるためのプログラムが、幕の内弁当のようにギッシリと詰まっている。ただし、この「笑い」、「お笑い」であることに気がつかなければならない。「お笑い」と「ユーモア」は対極にあるものなのである。
ユーモアはソロリと風のように吹く。鼻先を気持ちよくくすぐられ、おもわずフッと口許を綻ばせ、目尻を下げてしまう。つまり、力が抜けて、野暮に力み返っていたことが、馬鹿らしくなる一瞬である。
それに比べて、お笑いはいくらか暴力的でなければならない。ドシャ、グシャ、ゴキーンという擬音が必要になり、その被害者が必要になる。
お笑いとは、他人事にしているから笑えるが、実は悲劇なのである。
かってのスラップスティック(ドタバタ)は、主人公が律儀で誠実で懸命であるために悲劇的 状態になることを、ある種の同情を含めて笑っていた。なぜ笑えるかというと、主人公には悲劇から逃げる選択肢があったからである。
ところが 現在テレビなどで全盛の「お笑い」はこれとは違っている。主人公はけっして傷つかないし、危機にさえないのである。主人公は被害者を指名してみんなで取り囲んで、まあ、逃げられない悲劇にしておいて、選択肢のない残酷を笑うのである。
これでは、人々は笑えば笑うほど紙ヤスリになる。ヤスリは傷つかない。傷つくのは肌であり、心である。
ユーモアが欲しい。ユーモアの笑いは余裕である。過剰な競争心と、それによる被害妄想をやさしくほぐす。
ぼくらは、何もない貧しい時代に、少年雑誌の中のユーモア小説を体験して、緊張を解いて、相手を許すことを修得した。だから、学校教育の必須にしたいと思っている。

転ばぬ先の杖

2012年10月22日

先週の初めに右足のかかとのテーピングが外れたので、歩き始めたが、まだまだ普通のスピードでは歩けず、それも長いあいだはむつかしいので、先週はもっぱらタクシーでの移動だった。
出来るだけ外出しないようにはしていたのだが、週の後半は毎日何箇所か回っていた。
ほんの3週間程度の歩行制限だったが足の運びがうまく戻らず、ちょっとしたものに足をひっかけてしまう。つまづきである。
、2、3度は転びそうになった。こんな状態で転んだりして骨折してはかかとどころの騒ぎではなくなる。
自分の足の具合が悪くなると、歩くのが必ずしもスムーズでない人の様子を見てしまう。これまで気がつかなかったことが見つかる。意外だったが、杖を使っている人をけっこう見かける。それも、自分と同じくらいの年齢の人でも見かける。
そうだ、つまづいて転んだりするのは嫌だから、杖というか、ステッキでも、足の裁きがもっとスムーズになるまで使ってみようか、と思っている。
体力的にはそんなに衰えていないので、がっしりしたステッキはどうだろう?
ひょっとしたら運動にもなるのではないか、と思ったりしている。

かかとの話

2012年10月18日

かかとはからだの部分のなかで好きな部分である。
何も自分の足のかかとに限ったことではなく、一般にかかとのかたちが好きである。
そんな私の右足のかかとに異変が起きたかかとは機能的な美しさをもっている。
誰のかかとにもぜい肉がない。
たとえ、90センチを超える腹囲のメタボのオヤジでもかかとだけはきりりと筋肉質の、丸みを帯びた、機能的なかたちをしている。
そんなかかとだが、実はこれは我々が二足歩行の哺乳類である証拠のひとつでもある。
嘘だと思うなら、もし、そばに猫でも犬でもいたら彼らの足を見てみると良い。
彼らの足にはかかとは無い。ひょっとしたらチンパンジーにはかかとがあるかもしれない。
犬も猫も、その他の四足で歩く動物にはかかとがないのでかかとを着いて歩くことはない。
面白いことに、歩き始めた子供を観察してみると、かれらは足の前半を着いて歩いたり走ったりしている。そもそも、生まれて、立ち上がった初期にはかかとを着いて歩くということは無いのである。
かかとは、従って、なんとなく生物的には人間が人間的に動き出したことから機能しはじめたのかもしれない。
そういえば、日本のわらじにも草履にも下駄にも、かかとという概念はない。
ひょっとしたら日本人がかかとを歩くときに重用しだしたのは西洋からかかとのついたくつがはいってきてからかもしれない。そんなわたしの右足のかかとに異変が起きた。
痛いな、と思いながら我慢して歩いていたら、ある日、歩けなくなるほどの痛みに襲われた。それでも2、3日、だましだまし歩いていたのだが我慢できなくなり生まれて初めて、整形外科に行って見てもらった。
レントゲン撮影をされ、その写真を見せられて、ふたつのことに驚いた。
かかとの骨が変形して小さな角のようなものが生えているのである。その近くにちいさな裂傷がある。角が生えているだけのあいだは我慢できていたのだが、この裂傷ができて、急に痛みがひどくなったらしい。
{先生、これは高齢化現象のひとつですか}、最近、医者にいくと、高齢化現象の一言で説明され納得させられたことが多いので、今日はこちらから聞いてみた。
{いや、歩きすぎですよ。ずいぶん前から傷んでいたでしょう。歩きすぎ、歩きすぎ}
{歩くのは減らして運動したいのなら水泳をしなさい。水中歩行でもいいです}
という御神託を得て、頑丈にテーピングされ、‘早く治したかったら歩かないことが一番ですよ‘といわれた。それから2週間、どうしても出かける必要のあるときは家のそばからタクシーで出かけ、タクシーでもどることで不便をしのいだ結果、ようやくテーピングが外され、少々不自由ながらも、歩き始めている。
もうひとつの驚きはレントゲン写真に撮されたかかとの部分の骨の構成が思ったよりもずっと複雑だったことである。
こんなに複雑な構造なら、やはりそれなりの年になったらその構造を意識して使わなければ、と認識して、いまや、歩くのに適した弾力性のある底の靴に、さらにシリコンのかかと、女性の胸に入っているものと同類らしい、クッションを入れている。
このシリコンのかかとクッション、なかなか快適である。
何度か通販カタログで見ていたのだが買う決心には至らなかったが、今回購入して使ってみたらその快適さに感激である。
ちなみに、このクッションを入れていないスニーカーで歩くと、今日現在はまだ足が痛む。

リトルイタリー

2012年10月 1日

昨今の南シナ海、あるいは尖閣列島に絡んだ中国の動きをみていてNYのマンハッタンにあるリトルイタリーのことを思い出した。
NYのマンハッタンの南、キャナルストリートの北側一帯には1980年代まではリトルイタリーと呼ばれるイタリア人の街があった。
今でも地域の名前としてはリトルイタリーである。イタリアンマフィアの街だ、などと様子の分からない我々は噂をしていた地域である。
このリトルイタリーにはkタリア各地のいろんな美味しい料理の食べられるレストランがたくさん軒をならべていた。とくに、南イタリアの料理が好きで、NYに住んでいたときは何度も足を運んだ場所である。
このリトルイタリーのなかに2、30台は止められる駐車場がり、この駐車場はチャイナタウンにも近かったので、この地域に来るときにはいつもこの駐車場にクルマを預けていた。パーキングボーイはひょっとしたらマフィアのパシリではないか、とおもうほど強面のイケメンの兄ちゃんたちだったが安心して預けられるので愛用していた。
キャナルストリートを挟んで南側はチャイナタウンである。当時ははっきり、キャナルストリートを挟んで南と北で別れていたが、80年代から90年代にはいると少しずつチャイナタウンがキャナルストリートを超えて北側のリトルイタリーあたりに進出拡大しはじめてきた。
それから20年強、今ではリトルイタリーには未だ,何軒かイタリア料理の店はあるものの、もう、すっかりチャイナタウンである。ごひいきの駐車場はとっくに中華食品のマーケットになってしまって、イタリアンはどんどん北の方に追いやられいまやSOHOとの境目のあたりに張り付いたような感じで息をひそめている。
マフィアの街でも浸食してしまう,チャイナタウンのバイタリティである。これが南シナ海をはじめとする周辺地域の将来の姿では無いことを願いながら、チャイナタウンに浸食されたリトルイタリーの片隅のカフェのテラスで高齢のイタリア人の親父達がひそひそと肩を寄せて話をしている姿を思い出した。

病院の待合室から見える景色

2012年9月26日

このところ何かと病院に行く機会が増えている。
ほとんどが付き添いなので、待ち時間はロビーとか待合室でいろいろ眺めている。
年金生活者が多いことに気がついた。患者も付き添いも、両方とも待合室とロビーにあふれる人の大半が60歳代半ばを超える年金生活者であることに気がついた。患者も付き添いも、両方ともかなりの高齢者である。
この人たちの年金はどれくらいの金額なのだろう?
月額9万円くらいとおもってよいのだろうか?
この月額年金のなかで、今日はどれくらいのお代を払っていくのだろう?
月間ではどれくらいになるのだろう?
ひょっとしたら薬代も入れると3万円くらいだろうか?
こんなことを考えながらロビーにあふれる高齢の患者と付き添いを見ていたらこの人たちが年金をせっせと病院にはこぶアリの集団のように見えてきた。

ドクターバーンズ、半月経過報告

2012年9月18日

ドクターバーンズを服用し始めて,半月が過ぎた。
二つのパッケージに合計6カプセル入っているものを15日間寝る前に服用している。
体験報告
最初の報告に書いたように排尿の勢いの良さとその快感、残尿感の無さは今も続いている。外のトイレで並んで排尿するときも劣等感は無い。
目覚めの良さ、というか目が覚めたらすぐ起き上がりたくなる状況は服用して3日目あたりからずっと続いている。おかげで、だらだら寝ているということが無くなってきた。
一昨日は渋谷のデパートでエレベーターを待っているとなかなか降りてこないので、3フロアをすたすた歩いて上がった。これまでは階段で上がろうなんて考えも起きなかった。気のせいかもしれないが階段を上がるときの足の上がり具合が高くなった気がする。
体重の変化はほとんどない。1キロくらいの変化は食前食後では十分ありうるからもう少し様子を見なければ分からない。
ただ、ズボンのベルトの穴が一つ減った。正確には今までベルトの穴では緩く感じるので穴一つ分減らした,という感じである。体重がそれなりに減ったかというとその現象はない。
汗をかき易くなった。朝、ほとんど毎日20分程散歩というかウオーキングをする。
今までは14、5分歩くと汗が出始めていたが,最近は気温は少しさがってきているのに5分も歩くともう汗をかいている。
男性機能は、改善するといううわさもあるが自分には何の変化も感じられない。
枯れ木には花はさかず、ということか?内心期待していたのだが、、、
視力の改善
実は視力が改善しないか,と期待しているのだがいまのところ自覚症状は無い。
気のせいかもしれないが、呼吸が深くなってきた。これは最近の現象である。
もともとあまり呼吸は深くないのだが、最近は気がついてみると深い呼吸をしている。良いことか悪いことかは別にして、、、