世界地図

2009年12月31日

今日、世界地図を買った。
正月はこれを眺めて、、、、世界地図を買った。
世界地図なるものを買ったのはたぶん中学以来のこと。
そのころは親に買ってもらっていたから、自分で買うのはたぶん初めて。
最初は地球儀を買おうか、とおもった。
ネットでしらべたら余りにもいろいろあるのでまずとりあえず地図にした。
一枚の大きな地図があればそれで十分なのだが、もよりの本屋で見つけたのは旅行の本と一緒にならんでいたワールドアトラス、1100円。何のために買ったか?
それは明日にでも使いながらその報告をする。

メンタル介護ロボット パロ

2009年12月27日

最近ロボットに関心がある。
以前の仕事仲間がそれなりにロボットに関係していたり、ロボットについて講演をする機会があったり、、、関心があるのは介護に関するロボットの分野。このパロもお話相手をしてくれるロボット。


家族が特別養護法人ホームに入っている。その前はしばらく介護センターにいた。ほぼ週に一回会いに行く。その時期を同じくしてロボット関係の団体で話をさせてもらえる機会ができた。そこで少しだがロボットのことについて勉強する機会が出来、これまでの生産の自動化のためのロボットからこれからは生活の場所でも活躍が期待できるところまで来ていることを知った。
そのことと特別養護老人ホームで見る老人とが結びつき、とくに肉体的な介護サポートロボット、メンタル的な介護サポートロボットなど介護の分野でこれから期待されるロボットの役割に強く興味を抱くようになった。
そのなかで、特に関心をもったのがここで紹介するパロというメンタルサポートロボットである。資料によると1993年から研究がはじまり、2002年には世界一の癒すロボットとしてギネスブックで認定され、現在では8代目の製品だということである。その製品は動物を飼いたくても飼えない人のために開発され、いまでは介護センターなどの施設で使われているそうである。
介護施設に定期的に通っているといろんなことがわかるようになってくる。まず、ほとんどの人が車椅子の世話になっている。これは足が不自由になりあるけなくなったからである。車椅子を使うようになると行動の様子がかわる。なぜ、歩けなくなるか、なぜ車椅子になるか、このあたりは別の機会に見聞きしたことを整理してみる。
パロにかんしては意識の分野でのことである。介護の実態をみていると介護対象者の物理的な介護だけで手一杯である。それもかなりの重労働である。気をやすめる時間も無いというのが実態である。したがって、介護対象者の老人とゆっくりいろんなことを会話することは時間的に極めて難しい。被介護者のほうはだんだん一人で黙ってすごす時間が多くなる。つまり、人と話す時間が極めて少なくなる。これはなにも介護の対象者だけでなく独居老人でもおなじではないか、とおもう。
日ごろそのような状態にある人を訪問し時々話をすると、話をし始めたときにはなかなかコミュニケーションが無りたたないのだがほんの数分すると反応がアクティブになり、かつ顔の表情が変わってくる。
このパロというあざらしの子供のかたちをしたロボットは老人といろんなマナーで接することの出来るロボットである。知覚的な分野でのある種のトレーニングロボットだといってよい。
このようなロボットが具体的にこのような効能がある、というのはそんなに容易なことではないだろうし、私自身その経験が実際にあるわけではないから効能を具体的に述べることはできない。
しかし、実際に養護老人ホームにいる老人を定期的に訪問し、その老人たちに日ごろの話相手となるロボットがいたらずいぶんメンタルなケアになるのではないか、とおもっていたところこのロボットを見つけたので、ぜひ家族にも、とおもったのだが、、、、
パンフレットをみたら、なんと一台(一匹?)35万円だそうである。機能仕様をみるとさほど特殊な材料をつかっているともおもえないが常に改善開発が必要なのでそのための研究開発費であるとか、量産出来ないための製造コスト高とかでこの値段なのだろう。
これが十分の一の3万5千円なら、、、イ万台のロットで生産して、かつ介護関連の助成金予算がつけば3万5千円にすることも不可能ではないだろう。
それで毎日が楽しくなり、表情もあかるくなる老人が1万人ふえればとおもうが、、、、
今のロボットの事業のなかで一番難しいのは市場と開発された製品を結びつけるところである。このパロも同じむつかしさを抱えている。
いま自分の頭のなかをめぐっているのは、潜在的なこのような需要をいかにして顕在化させ、何があれば事業化できるか、である。たぶん、今の日本が持つ数少ない世界をリードできる事業分野なのだが、、、、
このロボットのパロという名前をしったときさっそく某有名検索機能で検索したが、何でも出てきそうなあの検索サイトでも引っかからなかったのは世間での認識の低さのあらわれか?
ちなみにサイトはhttp://paro.jp/
開発製造しているのは株式会社 知能システムという富山県の会社である。

池波正太郎の銀座日記、友人の死

2009年12月24日

池波正太郎の銀座日記。読み始めてだいぶ時間がたっているが
そろそろ終わりに来た。著者の日記の年齢とわたしの年がほぼ
同じになってきた。

朝、読書をする習慣がある。
それも二箇所で、、、起きてすぐは机に座って比較的まじめに読む本を
ひらく。もう一箇所は風呂に入りながら、である。
風呂のある場所が東に面していて朝とても明るいので読書には最適
だとおもっている。はじめた理由はそもそもカラスの行水タイプの入浴
を少しでもじっくりからだを温めるため本を数ページ読むことにした。
現座日記はそんな読み方をしているが、そろそろ終わりに近づいてきて
いる。
著者の年齢とわたしの年齢が重なってきた。
このところ日記に現れる話題は食べ物よりも池波正太郎の知人の
死とその思い出話が多くなってきた。たしかにこの年になると周りでは
毎月誰かが亡くなっていく。
特に今年はその感の強い年だった。
音楽業界では高名な作曲家、作詞家の先生が何人も亡くなられた。
わたしも仲のよかった友人を二人なくした。
このふたり、いずれもわたしよりも年下で、それも突然死である。
二人とも感性の強い人でいずれも世の中のひとつの時代を作り出した
人であった。この二人を思い浮かべてある意味でめぐまれているな、と
おもうのは二人とも世に作品を残しているところである。
世に何かを残す、ということはサラリーマン経験ではなかなかできない
ことなのである意味、うらやましい。
二人とも年末にはそれなりの忘年会をしていた相手であるから、今年の
年末はなにかさみしい。

季節外れのアイスティ

2009年12月23日

今日は、日差しがあたたかくここちよかた。
暖かい日差しだったので昼過ぎに家の近くをうろうろした。
休みの日は特に最近人が多い。
歩いているうちにダウンジャケットの下が汗ばんで来たので
カフェに入った。
いつも、飲み物は温かい紅茶のストレート、ミルクもレモンも砂糖も
いらない。
でも、今日はどうしたことか、あたたかかったせいかアイスティを
頼んでしまった。
頼んでから、こんな季節にアイスティなんて、、、とおもったが
悪くなかった。

年末廃棄物

2009年12月23日

今年もあと一週間、街はもう年末の景色

年末の街はおもしろい。
クリスマスの飾りつけとか、年末セールとかではない。
年末に向けてみんな家の中を片付けはじめるのか、おもしろい廃棄物が
出始める。
今日見つけたのはけっこう使い古したサーフボードが二枚。

寒い時期によけい寒く感じる。

狐と葡萄

2009年12月21日

イソップには現代に通じる寓話も多い。
でも、みんな短い寓話なので前後が省略されているのもある。この狐と葡萄の話にもかかれなかったところがある。
腹をすかせた狐は、木の下にきたとき、その葡萄の木から葡萄の房が垂れ下がっているのを見て、とってやろうとおもった。ちょっとジャンプしたが届かない。
あっさりあきらめて、‘どうせまだすっぱい葡萄だ‘とつぶやいて立ち去った。お母さん狐のところに帰った狐はお母さんにおなかがすいたのでなにかちょうだい、とねだったところ、お母さん狐は‘あれ、なにもとってこなかったの?‘と聞いた。。子供の狐は、‘途中で葡萄がなっているのを見つけたけど、すっぱそうだったのでとらなかった‘とこたえた。
実はお母さん狐も先ほどその木下を通っていたとき、葡萄の房には気がついていた。‘ああ、あの葡萄だね。もうすっかり熟していたようだけど、とらなかったなかい?‘。‘うん、すっぱそうだったから‘。お母さんははたと何かにきがついた。‘食べても見ないのによくすっぱいってわかったね。とってみなかったんだね。飛びついてみたの?‘飛びついたけど、とどかなかった‘、実は葡萄の木はそんなに大きくは無く、狐が一生懸命ジャンプすればとどくはずの高さなのだ。
お母さん狐は子供の狐がけっこう怠け者なのに以前からきがついていたので本気でジャンプしてとろうとしなかったのではないか、とおもった。お母さん狐は、それではもう一度言ってみよう、と子供の狐をつれて葡萄の木の下にやってきて、子供の狐にジャンプさせてみた。
子供の狐は適当に飛んでいるので届くはずはない。お母さん狐は‘もっと一生懸命飛ばなければとれるはずはないよ!‘しかられた子供の狐が思い切って飛び上がったところ、見事に葡萄の房をつかむことができた。
ビジネスでもよくあることである。このきつねのような怠け者は珍しくない。でも、葡萄はすっぱい、という言い訳のように自分の努力不足を棚にあげて、相手の性にするものがいる。
とくにこの手の怠け者はこの言い訳がうまいのでまわりはだまされやすい。典型的なのは、十分仕事がもらえるであろうと思われるお客様を担当している営業部員に上司がそのお客の様子をきくと、‘やるべきことはいろいろあるのですが、お客の担当者がやる気がないし、上に持っていってもなかなか通らないようです‘と答える。お客さんがそうなら仕方が無いな、で終わってしまうことが多い。
ところが本当はこの営業部員はお客様のところにはたまにしか行かず、上の人はおろか、担当者にもきっちり仕事の話などしたことがないのだ。こうやって、よいビジネスの機会があってもみすみす逃してしまうのがこの手の営業部員である。こんなことを防ぐには時には上司もお母さん狐のように営業部員といっしょに取引先に顔をだし、お客様と話をする機会を自分自身も持つことである。

たった3人のすばらしいレコード会社

2009年12月20日

たった3人、家族で経営しているレコード会社がある。
レコードという大量生産大量販売の商品とおもわれている世界に3人で、しかもすばらしい音楽をつくりだしている。
これからのレコードビジネスのひとつのモデルではないか?ヴィーナスレコードというジャズ専門のレコードレーベルがある。
父娘ともう一人、3人で経営しているレコード会社である。企画からアーティストの発掘、はては海外でのレコーディングまでてがけている。
しかも、ほぼ毎月新譜が出てくるから、年間にアルバムをすくなくとも10タイトル以上リリースしているはずである。いまもごく最近入手したアルバムを聴いている。
タイトルは‘EUROPE‘、Aaron Heikというアーティストのアルとサックスの演奏のスタンダードナンバーのアルバムである。3人だけ、しかも家族中心で運営されているビジネスでイメージするのは小売店だが、レコード会社となると、しかも毎月新譜を出しているとなると、大きな所帯でレコーディングスタジオをかまえたいわゆるレコード会社を思い浮かべる。しかしこの小さいが優れた音楽を提供し続けてくれている会社には特徴がある。父親で社長である原氏は企画、発掘、レコーディングまですべての主要な仕事を自分自身でこなせるのと、世界中のジャズの世界に人脈を持っているのと、、なによりも3人が音楽を作り出すことを楽しんでいるのではないか、とおもう。
小さなレコード会社だから小さな仕事か、というととんでもない。原氏の目利きのすばらしさかもしれないがこのレーベルがとりあげたアーティストが世界的なアーティストとして大成長しているケースもある。イタリア系のジャズ歌手であるRoberta Gambarini
もその一例である。
そもそも音楽は趣味の世界の市場である。レコードになった音楽はライブでもダウンロードでもない、音楽のひとつの商品の形である。3人でこん素敵なレコード会社が出来るなんて、自分も好きなジャンルで好きな音楽をレコードという形で世の中に出して行きたい、とおもって
いるひとにとってはとても心強くなる事例である。
ジャズの分野で出来るのだから、クラシックの分野でもできるはずだし、分野に限定されず展開の可能性がありそうだ。音楽ファンとしてはこんなレコード会社がいろんなジャンルでたくさん出てくることを期待したい。
ただ音楽を聴きたい、ということであればダウンロードで十分だろう。何かこだわって聞きたいというとき、あるいはそういう音楽の楽しみ方をしていうひとにはぜひおすすめの、ヴィーナスレコードである。

大阪梅田地下

2009年12月17日

大阪は東京よりも更に不景気?一昨日、大阪へ午後からの日帰りで出かけていった。
ロボット関係のあつまりに参加するためである。場所は大阪駅から歩いて6,7分、梅田新道の近くなので梅田の地下街を通っていったのだが、このクリスマス前なのに歩いている人はビジネス関係で急ぎ足のひとばかり。
一生懸命クリスマス風に飾り付けている店の前を足早に通り過ぎるひとばかりである。
途中で高さ5メートルはあるとおもわれるすばらしいクリスマスツリーがあった。
普通ならば、何人もの人が携帯で写真を写していて不思議の無い場所なのだが、誰も周りにはいない。じつに閑散としている。
そばに近寄ってみると若いお母さんがベビーカーから降ろした子供をそのクリスマスツリーの台の上に寝かしていた。ちょうど1メートル足らずの高さの台である。
更によく見ると、オムツをかええいる!安心してオムツが替えられるくらい、誰もいなかった。

セカンドライフはどこにいった?

2009年12月11日

セカンドライフ。まだ、覚えている人はいるだろうか?
ネット上のバーチャルワールドサービスだった(過去形)。
少なくとも、3年前はネットの話題ではとても大きな話題のひとつだった。
セカンドライフ。
その名前が登場したときは、自分はもう60歳を過ぎていたので人生のセカンドライフに関係したなにかではないか、とおもって変に反応したことを覚えている。
せいぜい、3年前ではなかったか?ネット系雑誌だけでなく経済誌も何もかも、どこかの大手企業がセカンドライフにビルを建てると日経新聞などの大手新聞がニュースとしてとりあげるほとの話題だった。ところが、、、、いま、だれか覚えているひとは?
なぜ、セカンドライフは立ち消えになったのか?3年前にメディアがこぞって取り上げた‘セカンドライフ‘で世界はこんな風になる、という記事よりも、じつは今の時点でなぜ‘セカンドライフ‘は定着しなかったのか、を調べ分析し記事にするほうがネット社会の発展に貢献するはずだがもはや、メヂア自身が自分たちが3年前にもてはやしたことも忘れている状態である。ここで、ひとつの教訓がある。メディアは伝える。場合によってはもてはやす。
しかし、そのことについて振り返って評価することはまずない。言いっぱなしである。
聞くほう、あるいは見るほうもそのように理解してうけとめる知恵が必要である。メディアの言いっぱなしを攻めるよりはそれに対処する自分の姿勢を作るべきである。
さて、セカンドライフをテーマにしてスタートしたのだからまず、これを整理してみよう。
‘セカンドライフ‘はなぜ定着しなかったか?ひとつは町は作ったけれど、人はそこに行かなかった。人とは観客、訪問者などなどである;。町を作ってもゴーストタウンなら人も行かない。セカンドライフのベースはネット上のバーチャル名不動産を売っていたモデルである。
もし、土地を買ってショールームをオープンするときは何を基準にその場所を探すか?
それはその場所の持つ集客能力である。セカンドライフの不動産にはその集客が保障されていたか?
あるいは通常の不動産のようにそこでの通行人の数、あるいは交通の便による差別化があったか?リアルの世界をシミュレートしたのだが、それはネット上でシミュレートした時に不動産としてリアルにはない価値付けがなされたか?単に現実をシミュレートしただけに終わっていなかったか?
今も毎日、いろんな新しい技術サービスがネットの世界に生まれている。
セカンドライフのように出て来ては消えていくものもあり、長続きするものもある。
それが長続きするいわゆる本命なのかどうか、セカンドライフの例にもあるように短命なのかなかなか判断は難しい。
メディアのもてはやしているのをそのまま信じていたらとても時間も体力もない。しかし、その中には玉があるのも事実である。そんな時、どうすればよいか?
私の場合はマまず、使ってみる。使ってみて自分なりに取捨選択する。触らず、使わず判断を下す、ということは出来るだけ避けている。
今、私のテストベッドに乗っているのはTwitterである。これもどうなるか、、、、
将来のために、これをもてはやしている雑誌の記事は切り抜いてスクラップしている。
2,3年後に読み直すのが楽しみである。セカンドライフのときはうっかりスクラップしていなかったのが今となっては残念。

伝えることと作ること

2009年12月11日

伝えることと作ることとは異なる。当たり前のことであるし、誰もが当たり前だとおもっている。ところが実際にその区別がついているのだろうか?
伝えることと作ることは違う。伝える人と作る人はちがう。当たり前である。
ところが、我々が接するのは多くは伝える人からのメッセージである。これはメディアに限ったことではない。普通の仕事でも情報を伝えるひととその中身を作り出す人とがいるのだが、その中身を伝rえるのは往々にして情報を伝えれう人であり中身を作る人ではない。
そこで、時として面白い誤解が生じる。情報を伝える人を作る人、あるいは作れる人と見てしまうのである。つまり、伝える能力のある人を作る能力のある人と勘違いしてしまうのである。さらには、作る人の情報伝達あるいは表現能力よりも伝える人の表現能力のほうがほとんどの場合優れている。したがって、ますます表現する人を作る人と思ってしまう。
このことの危険な点はいくつかある。伝える人にとっては伝えることに関しての一貫性は必ずしも無い。
伝え方、あるいは伝える姿勢には一貫性があるだろうが、伝える内容には一貫性もないし、その必要も無い。
たとえば、あるときは自動車について伝え、あるときは自転車について伝えるのが同じ人であるが、自動車を作れる人でもなければ自転車を作れる人でもないのが普通である。
一方で、自転車を作る人は自動車をつくr人でもなければ着る物を作る人でもない。自転車つくる人である。
この程度なら自転車をよくしてっている人に自転車つくりは頼まない。自転車つくりを頼むのは自転車をつくる人に頼む。ところが、そのあたりがはっきり見分けがつかないと、情報をつたえるひとにその中身のことをたのんだり、あるいは中身をつくるひとにその人の専門外の情報を期待したりする。
これまでのメディアのようにメディアに登場して情報を伝える人の顔がはっきり見える時代は比較的伝える役割の人について識別が容易だった。
ネットが発達しネットがますますメディア化すると、そこの判別がつきにくくなり、うっかり混同してしまうことが多くなってきているのでは?
簡単な例を見ると、編集者と作家である。編集者は本をつくる。本のことをよく知っている。作家についても評論も出来る。しかし,小説を書けるのは作家であって編集者ではない。そこをうっかり編集者をみて小説が書ける、とおもってしまうことはないか?
レコード会社のディレクターとアーティストの場合。レコード会社のディレクターは自分の担当しているアーティストに突いてよく知っているし、音楽とはなんぞや、ということについて
語るとエキスパートである。アーティストは自分が歌ううたについてはよくわかっているが、ある意味で人が歌う歌はそれほど知っている訳ではない。
音楽の知識が豊富なレコード会社のディレクターに作詞とか、作曲とか演奏を頼むとしたら、それは間違いである。しかし、ひょっとひたらあ優れた演奏も出来るのではないか、とおもってしまいかねなk。
つたえる人と作る人、それぞれ大事な役割を持っている。しかし、うっかりするとその役割を混同してしまいかねない。特に姿かたちが見えにくいネットの上では、、、、この人は伝えている人なのか、作っている人なのか、、、よく見極めよう。
この話、更に深めていくと素人と玄人の見分けにも及んでくる。最近は素人と玄人の見分けも難しくなった。いろんな分野で素人と玄人の垣根が低くなっている、あるいは区別がはっきり無く、連続的になってきている。
そこで必要になるのは、信頼できる評価の仕組みなのだろうか?もうひとつ、自分の今のニーズには素人に近い人のスキルでもたりるのか、本当の玄人が必要なのか、自分のニーズをはっきりさせることがまず、大事なことなのだろう。
さっそく、周りを見て、あの人は伝える人なのか、作る人なのか、そこそこ素人なのか本当の玄人なのか、、、人間ウオッチングを楽しんでみないか。