最近のご贔屓は泡盛

2010年3月23日

このところ沖縄に行く機会が多い。かなり沖縄に影響されてきている。
そのひとつが泡盛。あの飲み口すっきりにすっかりはまっている。


泡盛は種類が多いのとどれが定番なのか判らないのでいろいろ買ってみて試している。結構、あたりはずれがあるがようやく自分の定番にたどりついた。
それが、写真の‘くら‘という泡盛で、度数は25度。ちょっと度数がものたりないが味はくせがなく、かろやかである。
わたしにとってありがたいのは近くのスーパーの東急ストアに売っているのでいつでも手に入ること。
買ったきっかけはボトルの首にラベルタグが付いていてなにかコンテストに入賞したように見えたのだが、買うときは‘入賞した酒にろくなものはないのだが、、、‘と思いながら買ってみた。ラベルいわく、モンドセレクションで金賞を重ねて受賞、などと書いてある。
まゆつばで買ってみて飲み始めてびっくりである。たしか、1200円くらい。一応古酒と書いてはある。最近おすすめの一瓶、二日酔いになる心配がない。

久しぶりのテイルシチュー

2010年3月23日

昨日、ちかくのスーパーでオックステイルを売っているのを見つけた。
連休の最終日、時間があったのでさっそくテイルシチューをつくる。


料理をするのは嫌いではない。すでに高校生のころには何か作っていた記憶がある。
一度も下宿をしたことが無く結婚するまで自宅に住んでいたので必要に迫られて料理をしていたわけではないから、料理がすきなのだろう。そうは言っても毎日きっちり主婦のように作るわけではないからあくまで男の気まぐれ料理である。
自分の性格として料理をする気になれるときは気分に余裕があるときである。料理も簡単なものから気合を入れて作るものまで、いろいろある。どのレベルの料理に手をつけるか、がこれがまた、そのときの精神状態のゆとりを表している。
テイルシチューはすこし気合のはいっているほうのメニューである。この週末は久しぶりに3日間のんびりと家にいたので気分的なゆとりが出来て何か作ってみようという気になった。
休みだから築地まで出かけるわけにも行かず、近くの八百屋に冬瓜を探しに行ったが季節が合わないのか置いてなかった。
そもそもは干した貝柱を戻して冬瓜と煮て冬瓜のスープを作ろうと考えていた。しかし、今、これを書いていて、冬瓜が見つからなくってよかったと気がついた。冬瓜のスープを作るには干し貝柱を一晩水につけて戻さなければならないからである。冬瓜が手に入っても昨晩の夕食には間に合わなかったはずだ。ふらふら近くのスーパーなどを覗いて材料を探していたら、肉売り場の棚の奥にオックステイルがチラッと見えた。こんな店にあるとはおもわなかったし、これまでは気がつかなかったのだが、、、
しかし、パッケージは二つしかない。ちょっと足りない。念のため、店の人に聞いたら冷蔵庫にはまだある、と言うので全部で6パック買う。ついでにタンもあるか?と聞いたらタンシチュー用に厚めにスライスしたものがあるという。これで、次回はタンシチューが作れる。午後の中ごろからのんびりタマネギを炒めはじめた。テイルに小麦粉を振って周りを焦がして煮はじめる。味付けに使うのはしっかり狐色(と料理の本には書いてある)までいためた2個のタマネギとセロリのみじん切りだけ。
これに加えるのは赤ワインだが、今回はRedcreekのPino Noir、一本セールで980円になっているのを使う。ここで、ちょっとウンチク。どうしてこのワインを選んだかというと、まず、値段。シチューに使うのに一本1000円以上のものを使うつもりはない。それにカベルネソービニオンでは酸味があると思いピノノワールを選んだ。
ゆっくり時間をかけて煮込めばよいのだが、夕食に間に合わせたいので今回は圧力鍋をつかう。圧力鍋は固い肉を煮込むときの時間短縮の最強ツールである。というわけで、昨晩の夕食は出来立てのテイルシチュー。
出来上がり寸前にフランスパンが無いのとワインをすっかりシチューにつぎ込んでしまって飲む分が残っていなかったので、あわてて近くのスーパーまで買いに走った。
休みも三日目になると時間的にも精神的にもゆとりが出来る。昨日は午前中はすっかりほったらかしだった楽器の手入れをし、昼には自転車のタイヤが細すぎてこの年では乗りにくくなったので近くの自転車屋まで出かけてリブの幅に入る出来るだけ幅の広いタイヤと取り替えてもらった。少なくともタイヤの幅は五割くらい広くなった。季節がよくなったのでポダリングを楽しむ準備ができた。それから、夕食のシチューつくりで、昨日は久しぶりに充実した休日だった。

那覇の公営市場は中国そのもの

2010年3月22日

このところ毎月沖縄に出かけている。
二月はパネルディスカッションのパネラーの一人として、今月はシンポジウムの
参加者として。
時々那覇にある公営市場を覗いてみる。
今回も帰りの飛行機の便まで少し時間があったので出かけた。

那覇はいろいろ見所があるが、私の好きなところは公営市場である。
場所は国際通りからちょっと入った昔ながらの市場のあるちょうど
真ん中たりに別に区切られていて、公営市場入り口と看板の出ている
ところのドアを開けて入るとそこはもう、沖縄の築地である。
雰囲気は築地そのものである。違うのはなにかまったく中国を感じ
させられる。上海の町の中にある古い市場と同じような匂いがする。
ここは,魚をはじめいろんなものを売っているがその中で圧巻なのは
豚肉である。
豚肉を売る店は何軒もあって、それぞれがいろんな豚の部位を売って
いる。
その中の一軒に豚の頭が並んでいた。しかも真っ黒なサングラスを
かけて、である。そのままみるとなんとも悲しげな表情をしている豚の
頭だがサングラスをかけているととてもユーモラスなギャングの相
である。引き寄せられるようにカメラを取り出し一枚写したが、それ
だけではもったいないとおもい、この豚頭のギャングと記念のツー
ショットをしてしまった。
これだけ豚肉が豊富なのに国際通りを歩いていてとんかつ専門店
は見あたらなかった。絶対おいしいとんかつやがあってよいはずである。
公営市場には二階があってそこには、ちょうど築地に食べ物屋がある
ようにいろんな沖縄らしい食べ物屋がありやすくておいしい。

アメリカンアイドル

2010年3月22日

この連休、久しぶりにアメリカンアイドルを見た。
久しぶりの連休と言う感じでのんびりしてテレビを見ていたら、アメリカンアイドルをケーブルテレビで発見した。テレビ番組ガイドを見る習慣がないのでいつもチャンネルサーフィンをしながらいきあたりばったりに番組をみる。この番組を見るのは久しぶりである。
昨日今日の二日間で見たアメリカンアイドルは一ヶ月前の再放送のようだが男女12人ずつ、24人まで絞り込まれたところでのコンテストなので出演者の質はかなりの高さである。
この番組、出演者の歌も楽しめるが、何よりも楽しくて勉強になるのは4人の審査員の審査評である。審査評を聞いていると、なるほどこのように評価するのか、と審査員が見ている評価ポイントがわかる。
私のこの番組の楽しみ方は出演者の歌を聴きながら自分なりの審査コメントを考えておく。それと、歌が終わってからの審査員の批評とを比較してみる。その結果多くの場合自分の評価のつたなさを思い知らされる。5年ほどの自分のレコード会社の仕事の経験から、今回のアメリカンアイドルの24人までに残ったようなタレントには出会わなかったようにおもう。
それだけアメリカの音楽市場の新人の層の厚みと質の高さを痛感させられる。今回の24人のレベルの演奏者に対しての審査員の批評のポイントはかなり絞り込まれている。
まず、そもそもすぐれた声の持ち主であることがまず条件。よく使われている言葉は‘Gifted voice`、生まれながらに与えられた声の持ち主であること。
次に身の丈にあった歌を選び身の丈にあった表現を求められる。若い人がベテランの歌をベテラン風に歌つと、お父さんかお母さんの世代の歌をうたうのではない、とたしなめられる。
三番目は個性の発揮。カバーを歌っても個性は発揮できる、自分の身の丈と声の質にあった歌を選べば、、、とコメントされている。四番目はコンテストだからだろうが歌い方がちょっとでも萎縮していると、とにかくのびのびと歌え、と指摘される。
自分に合った選曲をすることがとても大切なことがわかる。イケテル、とかノリがいいといったわけの判らないコメントは一切ない。ただ、一言、それぞれの審査員は自分が好きか嫌いかは時々コメントしている。今回の番組の出演者のレベルにまで来ると音程がずれたりリズムに乗れていないと言う出演者はまずいない。こんなことは少なくとも論外なのである。
レコード会社の制作部門の社員にとって重要なことは能力のある新人を発掘することである。発掘するには能力のある新人に出会わなければならないが、能力を見極める力が探すほうにも求められる。新人の能力を見極める力を鍛える必要がある。歌手の評価する力を学ぶにはこのアメリカンアイドルと言う番組は最高の教材だとおもう。
昨今、なかなか仕事場の先輩から評価する目を添わることは少ない。なにも音楽の世界だけでなく、どこの職場でも先輩が後輩を指導する余裕も無ければ能力もなくなっている。したがって、何年たっても入社して少したったままの惰性で仕事をしていたり、もっと嘆かわしいのはよしあしの区別無く先輩の背中から見習ってしまっている。
このアメリカンアイドルの出演者と審査員の批評は新人発掘の目の付け所を教えてくれるだけでなく、発掘したあとの売り出すための企画のポイント、育成の仕方も教えてくる。
こころある音楽製作部門の人には必見お勧めの番組である。

新聞がネットで配信されるとき

2010年3月16日

出版物のネット配信のアプローチにはいろいろありそうである。ひとつは比較的著作権などの話し合いがしやすい学術書を配信するアプローチもあるだろう。しかし、出版物といっても書籍ではなく新聞が配信されるとどうなるのだろう?
メディアを比較してみるとき、そのメディアの持つ時間のサイクルで見るというのも見方のひとつである。たとえば書籍は不定期でそのサイクルは長い。作家をブランドとして見ると一人の作家が書籍をリリースするサイクルは幾ら短くても一ヶ月以上かかるだろうし、寡作な作家の場合は数年に一冊のペースだろう。
年鑑という出版物もある。このサイクルは一年でる。季刊というカテゴリーは四半期ごとである。月刊は毎月、週刊は毎週でこのあたりは雑誌というカテゴリーになる。更に短くなると日刊でありこれが新聞のカテゴリーである。
これよりも短くなると電波メディアになり、ラジオ、テレビと言うメディアが時間を単位にして番組を流している。これらはすべて発信側がその時間の軸を決めている。
ところがインターネットは言って見れば瞬間メディアである。それと同時に蓄積もできることから書籍的性格も持っている。
面白いことはインターネット上ではこれまでのメディアのもっていた時間軸をすべて再現できることである。さて、そこで新聞を見てみよう。
新聞は毎日発行されているわけだが、そこには独特の定期購読という仕組みがあって毎朝あるいは毎夕家にまで配達されるのが基本になっている。
したがって、読者はいったん購読契約をするとその契約に従って毎日同じ新聞を読んでいる。たまに駅のキオスクでほかの新聞を見ることもあるだろうが基本はすべて同じ新聞を毎日見ている。新聞の購読契約は新聞販売店の販売員によって個別に家を訪問し購読契約を獲得して発行部数を構成している。アウトバウンドセールスである。したがってある新聞がどれだけの部数が売れるか、というのは販売店の組織の大きさに大きく依存している。販売店網が大きな新聞社の新聞はたくさん売れ、小さな新聞社はそれなりの部数しか売れない。
ところが、これがネットの配信となったとたん、これまでのアウトバウンドセールスであった新聞と言う商品はインバウンドセールスに変わる。
しかもリアル店舗を使うインバウンドセールスではその商品を扱っている店舗の数がインバウンドセールスの売り上げに関係するがネットの場合は販売店はひとつであるから、ネット上で販売店を幾ら増やしても同じ商品で同じ価格であれば販売店の数の意味はなく、実質的に販売店は一箇所となる。つまり、新聞がネット販売化されるともはや新聞の売り上げ部数は販売店網の大きさに依存しなくなってしまう。
それでは購読数は何できまるのか?購読者の最大公約数が持っている関心事に対して的確な情報を提供する新聞が最大の購読者を獲得する、といえるのではなかろうか?さらに、これまでは新聞社が販売店に新聞を配送するというプッシュ型のビジネスであった。ところがネットで配信するとなるとプッシュ型からプル型にビジネスの形が変わる。つまり、これまではセールス主体のビジネスであったものがマーケティング主体のビジネスに変わる。
それに従い、インセンティブも従来の洗濯石鹸とか自転車と言う拡販材料から潜在購読者を引き寄せるための何かに変化する。
どうも新聞の電子配信は単に紙でなくなるだけでなく、ビジネスのモデルも大きく変わるし、新聞社が販売店を通じて提供する、と言う形から購読者が読み比べて選択する、と言う形に変わる。
その結果はどうなるかわからないが、強力な販売店網を駆使して大部数を獲得していたところが部数を減らし、今までは販売網が弱かったために部数を獲得できなかったところがその内容の個性によって大きく電子部数を伸ばす可能性を秘めている。そんな変化がすぐ目の前に来ているのでは?

新しいコク、ご贔屓に、

2010年3月15日

今日、仕事の帰りに地下鉄のなかでなんとなく広告をみていたら、
‘新しいコク、ご贔屓に、‘というコピーが目に入ってきた。この、‘新しいコク、ご贔屓に‘と言うコピーは新しいビールの広告のコピーである。
なんと言うことの無い広告であるがどうも‘ご贔屓に、‘というところが気になり目がそこで止まった。そこで、はっときがついた。
人生で初めて‘ご贔屓‘つまり贔屓にしてくれる客とはどんな客なのかわかった!‘贔屓‘という字がそれを表している。漢字とは実に偉大な文字である。
贔屓の字の構成をみると、二つの文字に貝の字が四つ、貝だらけといってもよいくらいである。貝はお金を表す。
贔屓とはすなわちお金をたくさん払ってくれる客、たくさん使ってくれる客なのだ。いつもご贔屓にしていただいてどうもありがとうございます‘といわれ、贔屓の客と扱われている人がいるとしたら、何のことは無い、いつもたくさんお金を使っていただいてありがとう、金遣いのよいお客様、と言う意味なのである。この年になっても、まだまだ新発見がある。

古本と電子図書流通

2010年3月15日

今年まちがいなく大きな話題になるのは本格的な電子出版物流通だろう。キンドルは出ているし、すでにネットでは日本語対応ソフトまで流通している。
アメリカからネットでキンドル端末を購入し、それに日本語ソフトを導入して青空文庫を楽しんでいる人もでてきている。出版物のデジタル配信は新聞の配信のほかすこしづつではあるが広がっている。今年はキンドルが発売され、そのキンドルを使った新しいビジネスモデル、つまり通信料金をコンテンツ料金とバンドルしたアマゾンのサービスが動き始めている。
うわさでは、日本でのサービス開始は今年の10月ごろとか、、、既に友人の何人かはアメリカからネットでキンドルを買い、それにネットで手に入る日本語対応ソフトを導入し、既にサービスされている青空文庫からデジタル書籍をダウンロードして使い始めている。今年の後半にはiPadも登場してくる。キンドルは500ドル以下の価格帯、iPadは500ドルから上の価格帯でおもしろいすみわけになっている。
このアマゾンのサービスがきっかけでデジタル情報の有料配信サービスが始まるだろう。この最大のよい点は有料で配信するがゆえに原著作者に著作権料が支払われることである。
コンテンツを作り出す立場としては継続して作り出す、つまり再生産が可能なだけの収入は最低限必要である。デジタル配信のコンテンツからそのための著作権料が支払われることがはっきりすると、このところ議論が続いていたコンテンツのネット配信における著作権料に関する議論の一部も解決される。さて、そこでひとつ考えたことがある。
自分が電子図書配信をビジネスとして始めるとする。そのとき、その原料である電子図書あるいは出版物が必要である。まともに考えればその出版物の出版社と話し合ってそことデジタル配信に関する契約を取り交わし出版物の提供を受けてデジタル販売し、その売り上げから出版社に著作権料も含めた料金を支払うことになるだろう。ところが古本の世界を見てみよう。
古本屋は既に出版社から販売された出版物を中古品として買取、それを販売している。先にあげたブックオフの一冊105円の本がよい例である。そこで、自分としては出版社から出版物の提供を受けるのではなく、ブックオフから本を買ってくる。それをスキャンしてデジタル化し中古図書デジタル配信サービスなるビジネスをはじめるとする。
そのときの仕入れ価格は105円、スキャンしてデジタル配信対応に加工するのは自社のサービスのためのコストである。こんなことを考えると幾つか面白い疑問がわいてくる。そもそも古本についての著作権はどうなっているのか?
著作権は存在していてもいったん古本となって販売されるときは著作権料を支払われていないようだが、なぜ著作物を販売しても著作権料を払わなくてもよいのか?昨日ブックオフで105円で買ったジョージソロスの‘グローバル資本主義の危機‘という素晴らしい本は今日昼休みに丸善に行ったら1800円で売っていた。私の105円で買った同じタイトルの本もその小口を見る限りまったく読まれた形跡は無い。
本という著作物はその販売物体について一度だけ著作権料を支払えばよいのか?さて、今度はデジタル配信に関してである。105円で買った古本は既に著作権を支払う対象ではなくなっている。したがってそれを原材料とした古本デジタル配信では著作権料を払わなくてもよいのではないか?
あるいは払うとしても仕入原価である105円に対していくらか払えばよいのではないか?
もうひとつの疑問である。出版物の多くは再販制度が適用されている。
音楽CDの世界においても再販制度が適用されているがそれがデジタル配信になった段階では再販制度は適用されない。
多分出版物のデジタル配信においても再販制度は適用されないだろう。
もし、著作物として紙に印刷された内容とデジタル化され配信される内容が知的生産物
として同じであるときにデジタル配信されるほうには再販制度が適用されず紙に印刷され
た本については再販制度が適用されるのであればその再販制度の適用は知的生産物に対しての再販制度の適用ではなくて紙に対する再販制度の適用なのだろうか?
近くにあるブックオフの一階はすべてコミックである。あそこで片っ端からコミックを買って帰りそれをスキャンしてiMacの巨大なディスクにホームアーカイブを作っておき、iPadが販売されたらすぐにコミックデジタル配信サービスビジネスをはじめるとする。ブックオフで正当な対価を支払って購入したものをベースに行い配信するのである。
そのとき、個人利用ではない、と言う理由で無料配信は禁じられるだろうが格安有料配信を行いその仕入れ価格からはじいた著作権料を支払うようにすれば、今の一切著作権料を支払っていない古本屋よりも良心的なサービスといえないだろうか?

六冊の本

2010年3月15日

昨日、近くのブックオフで本を6冊買った。

買った6冊の本はつぎのとおり。


丸谷才一著  男のポケット
 定価   780円
松本清張著  黒い福音
 定価   880円
ジョージソロス著  グローバル資本主義の危機
 定価  1800円
ダンブラウン著   ダヴィンチコードの真実
 定価  1600円
藤原新也著  幻世
 定価  1500円
村上春樹著 夢のサーフシティ
 定価  1700円
実は自宅からあるいて5分のところにブックオフがある。
これらの6冊はブックオフで買った。
6冊で630円だった。
1冊105円のコーナーがあるので休みの日はそこを丹念に眺めて何冊か買う。
昨日は収穫が多かった。
しかし、著作権ビジネスにかかわった経験のある者としては複雑な気持ちである。
6冊の本の中には少なくとも2冊はまったく読まれてはいないのではないか、と
思うほどきれいな本がある。それらの本がこの値段である。
しかも、630円と言う売り上げからにしても、印税は支払われていない。
ブックオフでは書き込みがあると買ってくれない。だから、売っている本は書き込み
のないきれいな状態の本である。
私はほとんどの本に書き込みをする。
本の余白は私にとってはノートのようなものである。
書き込みをすること、つまり手を動かし文字を書くことが読む理解を
かなりたすけてくれるように思う。
書き込みがあるから、私の持っている本はブックオフは買ってくれない。
だから、私が買った本はブックオフは買ってくれない。

高岡市とほたるいか

2010年3月 3日

ことしもほたるいかのシーズンになった。運良く、3月1日富山県の高岡に行った。
富山湾のほたるいかは3月1日が解禁だそうである。
ちょうどその日、IBMの旧友のT教授と高岡にある富山大学の芸術学部を訪問。この学部は国立大学のなかでもめずらしい芸術学部である。
会議は昼過ぎにおわり、列車の時間までゆとりがあったので高岡駅前のすし屋にみんなで立ち寄る。このすし屋、東京にもってくればなんとか次郎にもX谷にも匹敵するようなすし屋。なぜ人口17万人の高岡の駅前にあるのかわからないが、とにかくすばらしいすし屋である。
最後のころに当日解禁になたばかりのほたるいかの握りがでる。この時期のほたるいかはとてもあっさりしていて口当たりがやわらかい。これが5月の連休明けごろになるとすっかり濃厚なわたのあじが強くなる。とても口あたりがやわらかく普段東京で食べるほたるいかと感じがちがう。東京でたべるとどうしてもいかの目がくちのなかで触る。
聞いてみたら数センチもない大きさのほたるいかの目をピンセットで取って出しているのである。これぞ、職人の仕事、と感心。
これからは家でほたるいかを食べるときにもピンセットを用意しよう。満足して東京に戻った。

Swatchのお宝紹介

2010年3月 2日

銀座にSwatch の大きなお店ができた。
ニコラ ハイエク スタジオという時計スタジオ。
そこでこの機会にわたしのお宝Swatchを紹介しよう。

銀座の中央通りの7丁目あたり、新装になったヤマハのビルのすぐちかくにニコラ ハイエク スタジオができた。全館、スイスの時計の展示スタジオである。
ニコラ ハイエクはSwatch社のオーナー社長。いまスイスの主だった時計メーカーはこのニコラハイエクのもとに集結している。
そのニコラ ハイエクの傘下にある時計メーカーの製品を一堂に集めて展示しているのがこのスタジオである。
もちろん、とてつもなく高い時計も並んでいるがエレベーターで地下に降りれば地下の全フロアはありとあらゆるSwatchが展示されている。ひとつだけ、残念なのは現行のSwatchはすべてアナログであることである。わたしはいろんなSwatch を持っているがそのなかで特別よく使っているのは10年ほど前に発売されたBeatというデジタル時計であるがいまはもう無い。
3年ほどまえ原宿の店でまだストックがあると聞いて3個買い足しているので当分はたのしめるが、、、
今日、そんななかでお披露目したいのは10年以上前、1999年にスイスのSwatch社を訪問しニコラ ハイエクに会ったとき直接もらったビビアンウエストウッドのデザインによるSwatchである。写真の一枚はその時計の入っているケース。
まさにビビアンのロゴそのものである。もう一枚はそのケースに入っている時計。もちろん普通にはとても使えないがパーティーでは話題になること間違いなしの誰が見てもビビアンのデザインとわかるSwatchである。こんな時計をつくってしまうSwatch のあそび心が好きである。そういえば、Swatch社を訪問したとき、創立者の先代にもお会いしたがそのとき先代は両手に、それも二つづつ腕時計をはめているのを見て、さすが時計メーカーのオーナーとおもい笑えてしまったのを思い出す。