事業再生ーJAL

2010年9月 4日

今週、JALの事業再生計画が発表されていた。その計画が実現されても必ずしも再生できるとは思えない。
事業展開にはいくつかのパターンがある。
代表的なものはこのJALのようなケースの事業再生。
それ以外には事業拡張とか事業展開とか、、、それぞれやるべきことの重点とかアプローチがことなる。
まず、JALの事業再生計画のポイントを拾ってみよう。
債権放棄
これは銀行団がJALに対してもっている債権を放棄してもらうことである。つまり、借金を減免してもらうこと。
我々、個人ではほとんど考えられない銀行の対応である。
預金者から見れば銀行が利子を放棄するだけでなく元本を放棄するわけだから、預金者の預金と何らかの関係がある。
その金額は5215億円である。
銀行が融資している金額のなかでこれだけの金額を捨てるわけだから預金者としても株主としても見過ごせないだろう。
増資
企業再生機構から3500億円の資本出資をあおぐ。
これは事業の設備投資、あるいは新規開拓のためではない。
上記の債権放棄の5215億円で負債をその金額分減らす。
しかし、まだ債務超過の状態は解消できないので、債務超過を解消するのに必要な金額、つまり3500億円を外から入れて貰うのである。これはバランスシートの数字は良くなるが事業的にはなにもすぐには起きない。
ここで気になるのは企業再生機構が出資する3500億円の出所であるが、記事には明記されてはいないもし、国の金融機関からの資金が原資になっているとしたらその出所は税金である。
路線縮小
国内30路線国際15路線を運行廃止
人員削減16,000人
いまや慣れっこになった感のある人員削減だが、これは100人の企業160社が解散するのと同じ規模である。平均家族が3人だとすると4万8千人が影響を受ける。この人数はたとえば富山県の栃波市全体の人口と同じである。
平均年間所得を500万円としたら800億円の所得が消える。
同時に国としてはそこから得られていた所得税が消え、地方公共団体にとっては地方税が減るということである。
税収に対する影響も少なくない。
さて、これだけのことを行った結果経営は立ち直るのか、ということが気になる。
そこでJALはサービス会社であるからそのサービスの単価がどれだけ改善し、競争力ができたかを人を運ぶユニットコストで他社と比較してみる。
コストの尺度のひとつとして、お客一人を1キロメートル運ぶのに要する平均コストというのがある(らしい)。このユニットコストはJALの場合発表された再建計画が実行されたあと、つまり2013年3月で12円強になる計画である。
ところが、アジアだけでなく世界の航空会社での顧客サービスのトップランクにあるシンガポール航空のユニットコストは3円だそうである。
なんと、再建計画実施後のJALのユニットコスト12円強はシンガポール航空のユニットコストの4倍である。
別な見方をすると、シンガポール航空が25%の乗客稼働率で運航しているときにそれと同じ効率であるためにはJALは満席でなければならない、ということである。
これはたとえ再建計画が数字の上で出来上がっても国際航空業界ではほとんど競争力が無いのではないか?もし国際航空業界で競争できるためには意図的に国際航空運賃を下げると、その分は国内航空運賃に上乗せしなくてはならなくなる。
そうなると鉄道との競争力が低下する。
再生とは採算の取れていない事業をなくす。転換するのではなく、不採算の事業を採算の取れるようにすることであるが、よほどそれまでの経営がでたらめでない限りBS,PLの改善だけでは限度がある。もし、その範囲で採算がとれるように数字上の計画が出来ても実現できる保障はない。なぜなら、これまでの事業のやり方、およびそれを取り囲む文化にも問題がありうる、数字の改善だけでなく、企業の文化も変えなければならない。企業文化は人で作られている。再建計画のなかで企業文化の再生を成功させるには過去の企業文化を変えるわけだから、企業の従業員の過半を入れ替えるくらいのことをしなければ、実は、文化を変えることはできず、そうでなければいずれもとの木阿弥になってしまう危険をはらんでいる。
それではどんな方法が考えられるのか?
更なる人員削減を実行しこれまでの従業員数を必要人員数の半分以下にして新たな人員を採用する方法もあるが、これではまたまた雇用の問題が発生する。
これを避けるには次のような考えもある。
JALよりも従業員数が多く、再生に成功した類似業種の企業と合併することである。
たとえば、JR東海と合併するとか、、、そうすれば意味の薄い鉄道と航空の国内での競争も減るだろう。
再生計画を見ていて、これくらいの大胆なことをしなければ再生は無理なのではないかと感じている。

蛇腹カメラを楽しもう

2010年9月 3日

先日、いつものごとく近くの書店に立ち寄りカメラ雑誌のコーナーを見ていたらこんな特集の見出しが目に入った。
手にとってその特集記事を数ページ眺めていたら蛇腹カメラの紹介とそれをつかって写した撮影例が載っていた。
最近、この手のアマチュア向けの写真を楽しむための雑誌が目に付く。
何かしら肩に力の入った感じのするカメラ雑誌が主流をしめていたところにこのような視点の雑誌はなかなか面白い。
記事のなかでフォクトレンダーというもう無くなってしまったドイツのカメラメーカーのぺルケオEという蛇腹カメラの写真が出ていた。
このカメラはまさに私がクラシックカメラに手を出すきっかけとなったカメラである。

2001年、夏休みを利用してニューヨークにあるInternational Center Of Photographyというフォトスクールの夏期講習に出かけた。いまはManhattanの6thAvenueと43rdの角にあるがそのころは5th Avenueと92の角にあった。
ロバートキャパを記念して、報道写真を中心にして教える学校である。
そこから戻ってきた夏の終わり、友人と飲んでいるときにその話をしたら後日、その友人からカメラのムックが送られてきた。
フォクトレンダーのカメラを特集したムックである。
この一冊のムックが私をクラシックカメラに引きずり込んだ。
このムックのなかでとくに詳しく取り上げられていたのがこのペルケオシリーズである。その記事には浅草にある早田カメラというクラシックカメラの専門店も紹介されていて、その店主のこだわりのカメラ修理記事も載っていた。
それをしっかり読んだのが運のつきである。2,3週間後の週末には浅草の仲見世脇にある早田カメラまで出かけていった。
間口一間半くらいの店のウインドーにこのペルケオが鎮座していた。入りにくそうな店なのとすでにカメラファンらしき人が二人先客として店の中にいたが、恐る恐る店にはいり、うさんくさそうにこちらをみる店主の早田さんにペルケオを見せて欲しい、と頼んだ。
1950年代の後半に作られたカメラとは思えないほどきれいなカメラである。値段を聞いたら、内ポケットから勝手に財布が飛び出したかんじで5万6千円を支払い、人生最初のクラシックカメラを手に入れた。
ムックを立ち読みしていたらとたんにこのようなことを思い出し、その本は買わずに急いで家にもどりペルケオを取り出し、それ以来この何週間かはこのカメラで遊んでいる。
私の写真は所詮楽しみである。したがって古いカメラをお作法にしたがってのんびり使うのも楽しみの一つである。ただし、このカメラはいまでも使いたい特徴がある。
フィルムサイズが6x6でありながら休日のジャケットのポケットのようなちょっと大きめのポケットにはすっぽり収まる。
これこそ蛇腹の折りたたみカメラの良さである。おなじ6x6でもハッセルブラッドではこんなわけにはいかない。
それに、距離も露出もマニュアルでありシャッターも毎度チャージしなければならないが意外に使いやすい。
写る写真も、デジカメでパシャパシャ撮るのではなく、のんびり撮っているのでなんとなくよい感じに出来上がる。
そんなわけで、最近は左のポケットにはGRデジタル、右のポケットにはペルケオEというのが散歩のときの装備である。

白い猫でも黒い猫でも……

2010年9月 2日

中国の有名な政治家で’“不倒翁”といわれた鄧小平の有名な言葉に「白い猫でも黒い猫でもねずみを捕る猫はよい猫だ」と言うのがある。
かなり昔の言葉であるのだが、とても印象深く今でも覚えている……。
昨今の政治のごたごたのテレビをみながら、ふとこの言葉を思い出した。
国民の政治家に対する思いはこれとおなじではなかろうか?
「白い政治家でも黒い政治家でも国民を幸せにしてくれる政治家はよい政治家である。」
サンデル教授の「正義について語ろう」と言う本では、政治における正義とは、国民を幸せにすることである、と言う風に書かれている。
この二つの文章を結びつけると、面白い表現になるが、実はこれが国民の本当の思いではないだろうか?
白い政治家でも黒い政治家でも国民を幸せにする政治家はよい政治家である。国民を幸せにすると言うことは正義だから、この政治家は正義の政治家である。
どこか、マスコミのコメンテーターでこれくらいのことを発言する人はいてもよいのではないだろうか。

オンライン・ジャーナリズムとメディアの未来(2)

2010年9月 1日

フォーリンアフェアーズレポートのなかの首記の記事の中の、
前回積み残したトピックスを紹介する。
読者の参加、コメントについて
このことで常に議論になるのは読者の書き込みによって炎上する恐れである。これはメディアの発信側で特に強い。
この記事の対談の中でも取り上げられていて、無責任な無記名コメントは読むに耐えない、読むとモラルを下げてしまう、という議論から始まり、結果としてこの対談に参加しているメンバーのかかわっているメディアでは、書き込みできる人を会員制にして本名で書き込みをさせている。
これについては日本では本人の記名を求めると書き込みされなくなる、と言う懸念を示す人が多いが、責任を持った発言、自分の発言に責任を持つということから真剣なテーマについては記名投稿は当然であろう。
どうでもよいような内容のサイトに無責任に書き込むのなら誰も真剣に見ないからどうでもよいだろうが……。
将来のメディアのビジネスモデル
米国でもオンラインメディアをビジネスとして運営していくことは難しそうである。
この対談では二つのモデルが提案されている。
ひとつはそのメディアのテーマに賛同し関心のある人たちからの寄付による運営である。
米国にはパブリックテレビという公共チャネルが各州に存在し、これらは寄付によって運営されている。その歴史があるのでこのモデルが出てきているのだろう。
メディアが商業主義に陥らないように、と考える企業・個人が寄付をしている。
今後は日本でもその可能性を検討してみる価値はあるのではなかろうか。
二番目のモデルは広告モデルである。
従来型のメディア運営をしているとなかなかそれに見合う広告収入を得るのは、大変だろうがメディア事業のデザインを思い切って変えてみるとそれなりの広告収入で運営できるのかもしれない。
ワシントンポストが運営している三つのサイトはいずれも広告収入で運営できているそうである。
最後にSNSに言及
SNSについてTwitterとFacebookが取り上げられていて、これらをいかに効果的に活用するかが今後の課題である、とされている。
Twitterは日本でも急速に普及しているがFacebookは今ひとつぱっとしない。
そのバリューをわかりやすく伝え、プロモーションをする人がいないからではないか。
あるいは日本人は顔をさらすのがいやなのか?
もし、そうであればコメントを実名入りで書かせるという方法は文化的な難しさが日本にあるのかもしれない。
逆に考えると、記名式が普及すれば堂々と自分の名前を出して意見を述べよう、という人にとってはチャンス到来である。

サンデル教授にあやうくだまされかけた!

2010年9月 1日

サンデル教授の「正義」についての講義と本が大評判らしい。正義について語ろう、という政治哲学の本が30万部のベストセラーだそうである。【これからの「正義」の話をしよう】
この本を読むと、日本の政治家には政治哲学なんてあるのだろうか?
もちろん、無いだろうと確信を持つ。
そもそも、国会議員の中で何人この本を読んでいるのか調べてみたい。
県会議員、市会議員といわゆる政治に関わっている人は30万人の読者のうちで何人くらいいるのだろう。
さて、公共放送の衛星チャネルでサンデル教授の講義を放映していた。
そのとき、教授がある数字を持ち出して反証に使っていた。
番組を見ていたときはなるほど、と思ったが……………
リバタリアニズムの議論のときである。
自分の稼いだものは全て自分のものである、という主張がリバタリアニズムの極端な表現である。自己所有権の主張といえばよいのだろう。
ところで、これに対する反証の議論のなかで、講義に出席しているハーバードの学生は自己努力によってハーバードに入学できたのかどうか、あるいはそれ以外のどうにもならないようなファクターが影響して入学できたのか、というテーマが教授から提示された。家庭環境に恵まれていたとか学習指導がよかったとか、学生の間でいろんな意見が出たが、教授は不可避的なことを持って反証としようと考えたのか、学生達に自分が家族のなかで、第一子の人は手を挙げなさい、と言う。結果は過半数、約6割ほどの学生が手を挙げた。
そこで、先生の結論は、講義に出席している学生が幸いにもハーバードに入学できたことには自分では選択のしようがない、第一子に生まれた、ということが大きなファクターになっている、と話して自己努力だけではないという証明に使った。
学生達はなるほど、と納得してそのテーマは終了した。
この番組を見ていた私もそのときはなるほど、と思った。が、しかし……
世の中で第一子の人数は一番多く、その次は第二子、その次は第三子…ではないか?
つまりハーバードに応募する集団のなかで一番人口が多いのは、第一子であり、それは母集団が最大であるからであろう。
第二子はともかく、第三子、第四子になると格段に人口は減るだろうから第二子以下の合計は第一子の全体よりも少ない可能性は十分ある。つまり人口の母集団では第一子人口が過半をしめている可能性は十分高い。
そう考えると第一子に生まれたから第二子以下に生まれた子供よりもハーバードへの入学者数が多いことは単に母集団のサイズの違いによるものであって能力的な特別なことはない。
ところが、講義ではいかにも第一子には能力的に特別な要素があって、第二子以下の子供よりもハーバードへの入学は有利であるような印象を与え、それによってハーバードに入れたのは自己努力以外の要素があるがごとくの印象を与えていた。
この手の数字のマジックは日常生活でいたるところに見られる。
そして、この数字のマジックをうまく使って自分の主張を正当化したり、セールスをしたりするケースは少なくない。
しかし、ハーバードの名物教授の評判の講義でこんなケースがでてきたのは驚きである。
多分、教授自身、気がついていないのかもしれない。そう信じたい。

良い男(3)

2010年9月 1日

良い男(1)は日本人の永井荷風、(2)はフランス人のシャルルアズナブール
について書いたが、良い男(3)は実際に私が接することのできた人である。
大学生のころ、シャルルアズナブールを東京プリンスホテルで見かけその連れている若い女性をみて、あんなふうになりたい、とおもった。
その後、就職し、結婚し、しばらくの間は仕事に集中するので精一杯だった。40歳をすぎて少ししたころ、たまたま短い期間であったが当時、日銀総裁を退職された前川春夫氏の秘書役のようなことを臨時にさせてもらえた時があった。
その関係で海外出張のお供をさせてもらえたのだが、そのお供をしていて自分もこんな風な大人(既に自分も40をすぎているのに)に成れればよいな、と思ったことがある。それは仕事の地位とか内容とかではなく前川氏のある種のスタイルである。
たとえば、元日銀総裁だから飛行機はファーストクラスである。お供もどういうわけかファーストクラスに乗せてもらった。ファーストクラスではキャビアが出てくる。そのキャビアにはシャンパンが付いてくる。
ところが、‘キャビアには冷やしたウオッカが合うんだよ。キャビアはあぶらっぽいからね‘とキャビアを食べるのもはじめてなお供は教えてもらえる。食前の飲み物が出てきたときには‘ドライシェリーは小さなグラスでのむだろう?でも本当においしいのはウイスキーのタンブラーに氷をいれてオンザロックでのむことだよ‘といわれ同じものをオーダーしていただく。旅行は手荷物だけである。
しかも普通はお供が持たされるのであるが絶対お供には持たさない。
自分で持てる範囲の荷物にしているから持ってもらわなくてもよい、といわれる。
ホテルから出かけるときにロビーで会う時間を決める。
そうすると、必ず2,3分遅れで登場される。
早く来て周りに気を使わせないための配慮である。
とても偉い人なのに自分のことは自分で、とある意味で完全に自立した人だった。そのすがすがしさにあこがれていていまでも自分でもなんとか自立して自分のことはできるだけ自分でできるようにと心がけているのだがまだまだ、、、、である。