伝えることと作ること

2009年12月11日

伝えることと作ることとは異なる。当たり前のことであるし、誰もが当たり前だとおもっている。ところが実際にその区別がついているのだろうか?
伝えることと作ることは違う。伝える人と作る人はちがう。当たり前である。
ところが、我々が接するのは多くは伝える人からのメッセージである。これはメディアに限ったことではない。普通の仕事でも情報を伝えるひととその中身を作り出す人とがいるのだが、その中身を伝rえるのは往々にして情報を伝えれう人であり中身を作る人ではない。
そこで、時として面白い誤解が生じる。情報を伝える人を作る人、あるいは作れる人と見てしまうのである。つまり、伝える能力のある人を作る能力のある人と勘違いしてしまうのである。さらには、作る人の情報伝達あるいは表現能力よりも伝える人の表現能力のほうがほとんどの場合優れている。したがって、ますます表現する人を作る人と思ってしまう。
このことの危険な点はいくつかある。伝える人にとっては伝えることに関しての一貫性は必ずしも無い。
伝え方、あるいは伝える姿勢には一貫性があるだろうが、伝える内容には一貫性もないし、その必要も無い。
たとえば、あるときは自動車について伝え、あるときは自転車について伝えるのが同じ人であるが、自動車を作れる人でもなければ自転車を作れる人でもないのが普通である。
一方で、自転車を作る人は自動車をつくr人でもなければ着る物を作る人でもない。自転車つくる人である。
この程度なら自転車をよくしてっている人に自転車つくりは頼まない。自転車つくりを頼むのは自転車をつくる人に頼む。ところが、そのあたりがはっきり見分けがつかないと、情報をつたえるひとにその中身のことをたのんだり、あるいは中身をつくるひとにその人の専門外の情報を期待したりする。
これまでのメディアのようにメディアに登場して情報を伝える人の顔がはっきり見える時代は比較的伝える役割の人について識別が容易だった。
ネットが発達しネットがますますメディア化すると、そこの判別がつきにくくなり、うっかり混同してしまうことが多くなってきているのでは?
簡単な例を見ると、編集者と作家である。編集者は本をつくる。本のことをよく知っている。作家についても評論も出来る。しかし,小説を書けるのは作家であって編集者ではない。そこをうっかり編集者をみて小説が書ける、とおもってしまうことはないか?
レコード会社のディレクターとアーティストの場合。レコード会社のディレクターは自分の担当しているアーティストに突いてよく知っているし、音楽とはなんぞや、ということについて
語るとエキスパートである。アーティストは自分が歌ううたについてはよくわかっているが、ある意味で人が歌う歌はそれほど知っている訳ではない。
音楽の知識が豊富なレコード会社のディレクターに作詞とか、作曲とか演奏を頼むとしたら、それは間違いである。しかし、ひょっとひたらあ優れた演奏も出来るのではないか、とおもってしまいかねなk。
つたえる人と作る人、それぞれ大事な役割を持っている。しかし、うっかりするとその役割を混同してしまいかねない。特に姿かたちが見えにくいネットの上では、、、、この人は伝えている人なのか、作っている人なのか、、、よく見極めよう。
この話、更に深めていくと素人と玄人の見分けにも及んでくる。最近は素人と玄人の見分けも難しくなった。いろんな分野で素人と玄人の垣根が低くなっている、あるいは区別がはっきり無く、連続的になってきている。
そこで必要になるのは、信頼できる評価の仕組みなのだろうか?もうひとつ、自分の今のニーズには素人に近い人のスキルでもたりるのか、本当の玄人が必要なのか、自分のニーズをはっきりさせることがまず、大事なことなのだろう。
さっそく、周りを見て、あの人は伝える人なのか、作る人なのか、そこそこ素人なのか本当の玄人なのか、、、人間ウオッチングを楽しんでみないか。

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