2010年12月 5日
江戸の昔、将軍も三代目をすぎた頃世の中は成長も止まり、これと
いって夢のあることも起きず、、、、
そのころ、旗本にも町人にも歌舞く者が現れ静かな世の中では嫌われものになり、お上にとっては厄介な存在になっていた。
旗本で歌舞いているものを旗本奴、町人で歌舞いているものは町奴とよばれ、彼らはところかまわず相手かまわず喧嘩を売っては騒ぎを起こすので世の中の鼻つまみであった。
そんな旗本奴のなかに、普通は歌舞くのは行き所が無い次男、三男であるのに、どうしたわけか三千石の大身の旗本、市川家の嫡男がいた。
海老左衛門という。
ある夜、いつも徘徊する麻布の岡場所あたりで女をはべらせ酒に飲んだくれていた。そこにたまたま入ってきたのは町奴の親分の蔵前の力太郎とその一党。海老左衛門はいつものごとく酔った勢いでこの親分に喧嘩を吹っかけたのだが、力太郎はかねてから知っている市川家の嫡男であるから適当にあしらっていたら、この相手、ますます増長して罵詈雑言の連発の上、酒の強要までする。
見かねた手下の黒駒の玉蔵が間に割って入るとたちまち殴り合いの喧嘩に、、、
店もこれでは溜まらぬと裏木戸から外に追い出したがまだ喧嘩は続く。
腕っ節の強いので知られた玉蔵相手では海老左衛門も勝ち目無く、旗本の面目も無くようやく逃げ出し屋敷にたどり突いたのだが、動転した家人が町奉行所に連絡。この手のことは本来は後日穏便に収めるのが慣わしにもかかわらず、それを知らなかったから事が表ざたになってしまう。
さっそく、翌朝の読売には‘旗本の御曹司、岡場所で大怪我‘と書かれ街中が知ることになる。
数日して、酒の上の喧嘩ごととわかったが、本来は侍であり、大身旗本の長男の起こした喧嘩でさらに悪いことに町奴にぼこぼこにされたことから旗本間ではそのだらしなさに非難ごうごう、結局は喧嘩両成敗の原則で玉蔵は遠島、海老左衛門は切腹。嫡子が切腹したので市川家はお家断絶となって一件落着。この‘歌舞く‘が現代の‘歌舞伎‘ノ語源になっているそうである。